礼拝メッセージ(2021年10月31日)

『 ファリサイ派の不幸 』  林健一 牧師

それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。

あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。

あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

ルカによる福音書  11章:42~44節(新共同訳)

 「内側こそ清めよ」と私たちの中身を聖霊なる神さまで満たすことの大切さを学びました。私たちの内側が何で満たされているのか?それは人生が何で満たされているのかつながります。いくら外側を取り繕っても内側が幸いに満たされていなければ何の意味があるでしょうか。神さまとの交わりはそのことに気づかせてくれます。私たちの清さは神さまへの愛によって作り上げられていくものです。今日の聖書ではイエスさまがファリサイ派の人々にそのことの大切を教えようとされています。

 「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」(42)ということが、42、43、44節に三度繰り返して語られています。「不幸だ」は口語訳聖書では「わざわいである」と訳されていました。つまりこれは「かわいそうに」という同情ではなくて批判です。イエスさまはファリサイ派の人々の信仰のあり方を厳しく批判なさったのです。ファリサイ派の人々は、外側においては神さまを重んじてその掟に従っているように見えるが、内側においては、神さまとの関係における本当に大切なことをないがしろにし、むしろ自分の誉れを求めているのです。

 別にファリサイ派の人が私利私欲に走り、神さまを利用して金儲けをしていたわけではありません。しかし彼らは、自分の清さ、正しさを求めることによって、神さまよりも自分の栄光を追い求め、人よりも立派な者になることに誇りと喜びを見出すような生き方に陥っているのです。人からの誉れを求めていたのです。清いと自負していた彼らにイエスさまの言葉はどう聞こえたのでしょうか?

 私たちが結局そこから解放されるには神さまに向き合って生きていくということが大切なのです。私がイエスさまのいのちに新たに生かされているということを心にとめていきたいと思います。

 「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」(ガラテヤの信徒への手紙 2章:19節)