礼拝メッセージ(2024年5月12日)「幼児から成人へ」 石井努 牧師

1:コリントの信徒への手紙一/ 03章 01節
兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
2:コリントの信徒への手紙一/ 03章 02節
わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3:コリントの信徒への手紙一/ 03章 03節
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4:コリントの信徒への手紙一/ 03章 04節
ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
5:コリントの信徒への手紙一/ 03章 05節
アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6:コリントの信徒への手紙一/ 03章 06節
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
7:コリントの信徒への手紙一/ 03章 07節
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
8:コリントの信徒への手紙一/ 03章 08節
植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
9:コリントの信徒への手紙一/ 03章 09節
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

コリントの信徒への手紙一/ 03章 01節~03章 09節(新共同訳聖書)

      

 「パウロに」とか「アポロに」などと言っているコリントの人たちは、自分のキリスト論の中で生きていたのでしょう。そうでなければ、教会内で売春が行われることを見ぬふりをしたり、偶像の肉を食べたとか食べないとかで争ったり、自分で晩餐を勝手にするなど、ユダヤ人とか異邦人とか、互いの信仰を攻め合うようなことは考えられません。ある人たちは、「キリストと結ばれた自分たちは、言葉も知識も豊かになった。」そう言って、自分を誇る始末です。まだ、霊的な成長が十分ではないのに神学知識だけを与えられれば、その知識だけを誇ることにしかなりませんし、得意になって天狗になるだけなのです。争いが起こるのは至極当然のことと言えるでしょう。知識と知識の争いですから、人間的な解決以外に方法がありません。そのうわべの知識がさらに争いを生むことになるのです。


 パウロはここでは段階的に教え、人を見て法を説くといったやり方を取っています。その人にあったものを与えなければ、どんなに素晴らしいものでも無駄になってしまうでしょう。コリントの人たちは、幼い信仰であったのでしょう。赤ん坊にはフルコースの料理よりも、ミルクの方が栄養になります。高校生にはミルクよりも。しっかり咀嚼して脳を刺激する物、栄養のバランスを考えた食事が望ましいでしょう。 信仰が幼稚園生なのに、高校生の知識を与えても、飲み込めないのです。ですからパウロは固い物は与えられなかったと言うのです。パウロは「いや、今でもできません。 3相変わらず肉の人だからです。」とコリント教会に書き送っていますが、わたしたちは、パウロの言う乳幼児から、少し成長させていただいて「固い物も口にすることが出来るようになった」のではありませんか。神の教会はイエス・キリストに在って一致することから成り立っています。私たちも「キリストの名によって召され、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために」集められているエクレシアなのです。わたしたちは、このコリントの教会のようになってはいけません。そうでは無いと確信をしていますが、今も将来も仲間割れや分派をするようになってはいけないのです。教会には違う個性を持った者が集められています。しかし、主から使命を委ねられているという理解は一致しています。お互いを大切にし、交わりに励み、お祈りと与えられるみ言葉を、しっかり噛みしめてまいりましょう。信仰によってさらに自分自身を吟味して、それぞれに栄養のバランスを考えた奉仕に励む。そんな教会生活を過ごしてまいりましょう。