礼拝メッセージ(2024年5月5日)「人の内にある霊」 石井努 牧師

コリントの信徒への手紙一 2章:6節~16節(新共同訳聖書)

6:コリントの信徒への手紙一/ 02章 06節
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
7:コリントの信徒への手紙一/ 02章 07節
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8:コリントの信徒への手紙一/ 02章 08節
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9:コリントの信徒への手紙一/ 02章 09節
しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
10:コリントの信徒への手紙一/ 02章 10節
わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
11:コリントの信徒への手紙一/ 02章 11節
人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
12:コリントの信徒への手紙一/ 02章 12節
わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
13:コリントの信徒への手紙一/ 02章 13節
そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
14:コリントの信徒への手紙一/ 02章 14節
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
15:コリントの信徒への手紙一/ 02章 15節
霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
16:コリントの信徒への手紙一/ 02章 16節
「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

            

 コリントの教会では、偶像への供え物を食することなどで、教会内での不一致が起こっていたとお話しました。『しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。 7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。』の文言からすると、パウロの言う「知恵」は2種類あるようです。信仰に成熟した人たちに分かる知恵。そして、この世の滅びゆく支配者たちの知恵。パウロが語るのは初めの人たち、つまり「信仰に成熟した人たちに語る知恵のようです。それは、神がわたしたちクリスチャンに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておいた「知恵」「神秘としての神の知恵」だというのです。それでは、パウロの言う「信仰に成熟した人」とは誰のことなのでしょうか。


 成熟した者とは、神中心で自分中心に生きない人のことです。成熟した者たちの知恵は、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなるのです。権力争いをしている場合ではないのです。成長している人とは、自分の不完全さを知って神をより頼む人のことです。パウロ自身も「キリスト故に自分は何も誇るべきものを持たない」と考えています。その不完全さを認めるクリスチャンこそが成熟を目指して歩めるのだ。と、訴えるのです。教会は、イエス様に対する信仰と授かった知恵において、一つになることを求める群れなのです。教会員それぞれが、お互いの不完全さを認めたうえで、神に向かって進む群れだと言っておられるのです。


 パウロの語る知恵は、「イエス様は無罪にもかかわらず、十字架につけられた。」この事実です。この事実こそがパウロの最も大切に伝えようとしたことです。知恵はイエス様が十字架の死によって、わたしたちを贖われた。このことから始まりました。そしてその知恵の所有者はイエス様ご自身なのです。そこには、「異邦人の救い」「ユダヤの回復」「信じる者の救いの完成」このように、やがて主によってもたらされる終末における救いの計画。隠された奥義」ともいうべきことがあります。パウロが十字架の言葉を受け入れた人々に語る知恵は、この世にあるものではないのです。


  わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それ故にわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。「人のうちにある霊」とは、イエス様と申し上げましょう。「主よ、どうぞわたしたちの内にお入りください」と祈るのはそのことを現わしています。「主よ、どうぞわたしたちのうちにお入りください」と祈りましょう。