礼拝メッセージ(2026年5月17日)「神の家」テモテへの手紙一 3章8~16節

信頼できる人に託される役割
テモテへの手紙一の3章では、教会の指導者のあり方が語られています。1節~7節の「監督」は、他の箇所にある「長老」と同じ種類の役職だったようです。8節~13節の「奉仕者」は、他の翻訳では「執事」とも訳されます。ただこの「執事」は、私たちの教会の執事とは違って、貧しい人々や病気の人々のために奉仕する役割だったようです。
パウロはここで、監督や奉仕者という役割を担う人に求められる態度や振る舞いについて語っていますが、それは教会独自のものではありません。「二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼら」ない、ということは、世間的にも信頼を得るために必要な事柄です。それを教会の指導者たちに教えなければならなかったということですので、当時のエフェソの教会はどのような状態になっていたのかと心配になってきます。
教会は誰もが招かれる場所です。私たちは誰一人、完璧ではありませんし、失敗も繰り返しますし、苦手なこともあります。教会はそのような私たちがありのままで受け入れられたことを知る場所です。この手紙の1章15節にあったように、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」。
ただし、そうだからといって、教会ではどんな態度や振る舞いをしてもいい、ということではありません。トラブルが繰り返されれば教会はバラバラになってしまいます。特に指導的な役割を担う人が二枚舌を使って人を惑わし、大酒を飲んで暴れまわり、恥ずべき利益をむさぼって人を陥れるようでは、教会はキリストを伝えることができなくなってしまいます。だからパウロは、監督や奉仕者に最低限求められることを教えなければならなかったのでしょう。
パウロの思いは受けとめます。それでも、テモテへの手紙に書かれた事柄を、今の教会でそのまま受け入れることはできません。例えば12節では、「奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません」、と言われています。しかし私たちは、奉仕者は男性だけではなく、結婚している必要もなく、子どもがいなければならないということもない、ということを知っています。
このような個所は普遍的なものではなくて、当時の時代や社会の中で求められていた事柄が反映しているものです。ですからそれを文字通り受け取る必要はありません。大切なことは、教会がバラバラにならないように、教会の役割は信頼できる人に託されるものだ、ということなのでしょう。
心の内にキリストが住む
奉仕者にはこのようなことも求められていました。
「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。」(テモテへの手紙一 3章9節)
「信仰の秘められた真理」というのが、具体的にどのようなことであるのかは、はっきりしません。ただ、16節では「信心の秘められた真理」として、キリスト賛歌が引用されていますので、真理とはイエス様に関することだと考えてよいでしょう。
心の内に真理を持つ、そしてその真理がイエス様に関することだとすると、エフェソの信徒への手紙にある、「心の内にキリストを住まわせ」、という言葉と繋がります。
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソの信徒への手紙3章16~19節)
イエス・キリストが私たちの心の内に住んでくださることによって、私たちは愛に根差し、愛にしっかりと立つ者へと変えられていきます。自分の努力だけで愛に立つように変わろうとするのではなくて、むしろ聖霊の力によって、私たちが強められ、変えられて、キリストに倣う者へとされていくのです。
そしてそのために、私たちに期待されていることは、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解すること」です。十字架で示されたキリストの愛が、私たちの知識を遥かに超えるほど大きな愛であったことを知るようになることが、心の内にキリストを住まわせることと繋がっているように思えます。
信仰の秘められた真理とは、イエス様の十字架と復活に示された愛なのかもしれません。私たちがその真理を心の内に持ち、キリストを心の内に住まわせることは、私たちがイエス様の十字架と復活を心に留め、イエス様に目を向け、イエス様に想いを向け続けることなのでしょう。
最も重要な土台
3章14節からは、監督や奉仕者のあり方について話した理由が述べられています。その理由とは、エフェソの教会に行くことができないパウロが、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたかった、ということです。
「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(テモテへの手紙一 3章15節)
教会が「神の家」だと言われています。神の家である教会が、「真理の柱であり土台」である、と。真理はイエス様に関わることでした。ただそれは、教会に集い、形作る私たちが、イエス様の柱になったり、土台になったりすることができる、というわけではない気がします。
土台についても、エフェソの信徒への手紙で語られています。
「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソの信徒への手紙2章19~22節)
こちらでは、使徒や預言者が土台となり、その上に教会が建てられている、と言われています。確かに使徒や預言者が最初に神様の言葉を伝えたという意味では、その人々が土台と言えるでしょう。ただしここで注目したいのは、「かなめ石はキリスト・イエス御自身」であると言われていることです。
かなめ石は、他の聖書では「隅の親石」と訳されています。それは石を組んで家や神殿を建てたときの最も重要な土台となる石のことです。隅の親石が建物全体を支え、建物全体の姿勢を定めます。つまり教会の誕生に関わったのが誰であっても、教会を支え、形作るときに最も重要なのはイエス様だということです。
そのように考えると、教会が「真理の柱であり土台」であるということも、教会に集う私たちのような人間が真理の柱や土台になるということではないのでしょう。最も重要な柱や土台は、やはりイエス様です。イエス様によって私たちが組み合わされ、共に建てられ、イエス様によって支えられ、形作られるとき、その教会は真理の柱や土台となり、神様の言葉を伝え、福音を証しすることができるのです。
十字架の主を証しする神の家
神の家と呼ばれ、神の住まいとなると言われる教会は、平和を表すことが神様に期待されています。それには教会の中が平和であることも含みますが、それに留まらず、この世に平和を実現し、平和の福音を告げ知らせた方を証しすることも含みます。先ほどのエフェソの信徒への手紙の少し前で、パウロは次のように語っていました。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソの信徒への手紙2章14~18節)
イエス様は敵意を破り、異なる者同士の間に平和を実現させ、一緒に神様と和解させてくださいます。教会はそのようなイエス・キリストを証ししますし、平和を実現させるイエス様に従って歩みます。
けれども現実に目を向けると、それは途方もないほど困難な道だと気づかされます。私たちはしょっちゅう苛立ったり、ねたんだり、争ったりしてしまいます。また今の世界では自分たちだけが良ければいいという考え方が広まり、人と人とを隔てる壁があちらこちらで作られ、壁の向こう側の人を理解できなくなり、敵意が増し加わっています。一度、争いが始まると、どのように終わらせればいいのか、当事者も含めて誰もわからなくなっているように見えます。
そんな私たちの罪と、この世界の罪とを見せつけられると、どうしようもないと諦めそうになります。しかしそのようなときにこそ、私たちは十字架の主であるイエス様を見上げます。イエス様は私たちのために――またすべての人々のためにも――十字架に架けられ、その裂かれたご自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊してくださいました。
私たちは十字架のイエス様を見上げ、私たちの敵意を取り去っていただき、共に生きる困難な道へと押し出していただきます。壁を作るのではなく、壁の向こう側に目を向けること、友人にはなれなくても、共にこの世で生きる隣人になることに挑戦していきます。
またこの世界を思いのままに変えることはできなくても、主が敵意という隔ての壁を取り壊し、和解と平和の道を指し示してくださることを信じながら、十字架の主を証しし続けます。それが神の家であり、神の住まいと呼ばれる教会のあり方だと思うのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年
『NTD新約聖書註解(9) テモテへの手紙 テトスへの手紙 ヘブライ人への手紙』泉治典・大友陽子・木幡藤子・関根正雄・高橋三郎訳、NTD新約聖書註解刊行会、1975年

