礼拝メッセージ(2026年4月26日)「支配者ではなく、神にならう」テトスへの手紙3章1~11節

熱狂を抑えるための勧告

聖書は神の言葉です。太田教会では、「聖書は聖霊の導きによって書かれた神の言葉であり、私たちの信仰の唯一の基準です」、と信仰告白をしています。私たちは聖書を通して神様と出会い、神様の御心を知り、神様にならう生き方を学んできました。

しかし聖書の言葉は、文字通りに受け取ればよいというわけでもありません。一つには翻訳の限界があります。原文のヘブライ語やギリシア語から日本語に訳す時に、どうしても意味が少し変わってしまう箇所があります。もう一つには、他の箇所と比べると、反対の内容と思えることが書かれている箇所があります。今日の箇所もその一例と言えるでしょう。

「人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。」(テトスへの手紙3章1~2節)

ここでは、支配者や権威者に服従しなければならないと書かれています。これと同じようなことは、ローマの信徒への手紙にも書かれています。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマの信徒への手紙13章1節)

これらの箇所を文字通りに受け止めるなら、時の権力者に従順であることが神様の御心だと考えられるでしょう。これが悪用されれば、権力者への批判を封じることもできるかもしれません。私はこのような言葉に強い違和感と警戒感を抱きます。

聖書の他の箇所に目を向けると、神様が権力者に対する従順を求めておられないことは明らかです。旧約聖書では、神様が人々をファラオに対抗して、ファラオの支配から人々を解放しました。イスラエルが国を作ってからも、神様から遣わされた預言者たちが何度も王の不正義を批判しました。

新約聖書では、イエス様ご自身が、当時の権力者たちに対抗しています。イエス様はローマ帝国に対しても、ヘロデ王に対しても、祭司長に対しても、従順ではありませんでした。イエス様はただ神様に対してのみ従順であり、この世の権力を批判し、神様が治める「神の国」の到来を宣べ伝えられました。

パウロが手紙の中で支配者や権威者に従うことを求めたのは、無謀な抵抗運動へと突き進まないように、教会の人々を抑える意図があったようです。終末が近づいているという高揚感から、現状を無視した暴走が起きることへの懸念があったのです。文字通りに読むと、権力者への従順が求められているように読めますが、そのような意図ではなかったということは抑えておきましょう。

支配者の過ち

人間は過ちを犯すものですが、権力を持つとその過ちも大きなものになります。先々週から、今、昆虫が急激に減少しているということをお話してきました。そのことが各地の生態系を壊し、人間にとっても生きづらい世界に向かわせてしまっています。

昆虫が激減した原因はいくつかありますが、その一つは除草剤の使用量の増加にもあります。最も広く使われているのは“グリホサート”という除草剤で、「ラウンドアップ」という商品名で日本でも一般的に目にするものです。

グリホサートはどんな植物も枯らす強力な農薬で、色々な場所で雑草を枯らすために使われています。しかし人間にとっては邪魔な雑草も、他の生き物にとっては重要な食料であり、隠れ家です。除草剤の使用によって雑草が大幅に減ったことで、草を食べる昆虫が減ってしまいました。そのために、昆虫を食べる鳥など他の生き物も減っています。

また、グリホサートは、昆虫にとっても有毒であることが明らかになってきました。さらに2015年には、世界保健機関がグリホサートは「人間に対して発がん性がある」と発表しました。ラウンドアップを販売するモンサント社は、グリホサートが病気の原因だと訴えるがん患者から、1万3000件以上の訴訟を起こされています。

それでもグリホサートが世界中で使われているのには、モンサント社による莫大な金額を用いたロビー活動の影響があるようです。グリホサートには発がん性はないとする研究もありますが、それらはモンサント社が独自に行った研究によるもので、その研究結果は中立的な立場によるチェックを受けてはいません。

このような事態に対しても、支配者や権威者に服従し、「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならない」ということを当てはめてしまったら、命を脅かすことも無批判に受け入れることになってしまいます。

一方で、聖書の言葉には、いつどのようなときにも文字通り大切なこともあります。他方で、どのような状況の中で語られ、書かれた言葉であるのかを考える必要のあることもあります。だから聖書は一部の切り取りだけでなく、他の箇所とも比べながら読むことが大切です。大きな力を持った支配者が大きな過ちを犯すのは、今も昔も変わりませんので、私たちは無批判に支配者に従うことは求められてはいないのです。

善い行いの根拠

一方で、パウロがクレタの教会の人々に善い行いをすることを求めているのは確かです。善い行いによって、教会内の関係を強め、また世間と教会との関係も良くしていきたいという思いがにじんでいます。

善い行いとして求められていることを読んでいると、なかなかその通りにできない自分の姿も思い浮かびます。「自分はなんてダメなんだ」と落ち込みそうにもなります。ただここで、善い行いを求めているパウロ自身が不完全であることを自覚していたことは慰めになるでしょうか。

私たちは完全な者になったわけではありません。この世の生涯において、完全になることはそもそもあり得ないことでしょう。それでも私たちは聖書の言葉を読み、神様の言葉に耳を傾け、善い行いを学び、それを行いたいと思います。それはなぜでしょうか。

3節でパウロはかつての自分たちがどのような者であったのか、ということを告白します。

「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。」(テトスへの手紙3章3節)

パウロも、また私たちも、闇の中に捕らわれていた。その時には、何が悪いのか、どうすればいいのかもわかっていなかったかもしれません。神様を見失い、人との関係も傷つけながら、進むべき道が見えずに迷っていたのが、パウロと私たちの姿でした。

しかし、その闇の中に光が照らされました。闇が完全になくなったわけではないし、すべての関係が回復したわけでもない。けれども、そこが闇であったことに気がつき、光の指す方向に向くことができて、そこに向かって進みたいと願うようになった。それは私たちが善い行いをしたから変わったのではなく、ただ神様の慈しみと愛によって変えられたのだ、とパウロは語ります。

「しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。神は、この聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストを通して、私たちに豊かに注いでくださいました。こうして私たちは、イエス・キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3章4~7節)

パウロが伝える善い行いとは、支配者によって強制されるものではありません。それは神様に招かれ、イエス様によって押し出されるものです。神様が私に目を留め、慈しみ、愛してくださった。私のためにイエス様を送ってくださり、イエス様が先立ち、また共にいて、導いてくださる。だから私たちは、神様に応え、イエス様にならって、善い行いをしたいと望むのです。

神様を知り、イエスに倣う

エフェソの教会の人々には、パウロは神様に倣う者となるように呼びかけました。

「あなたがたは神によって愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章1節)

私たちが神様によって愛されている。イエス様を通して、私たちも神様の子どもとしてくださった。そのような神様の救いがあったからこそ、私たちは神様に応えたいと思うのではないでしょうか。そしてその時には、私たちが倣うのは神様であり、神様のことを現わされたイエス様です。

パウロは教会の人々に、自分に倣ったり、テトスやテモテに倣ったりすることも求めています。しかしそれはパウロやテトス、テモテが権威ある者だからではありません。彼らを通してイエス様を知り、神様を知るからです。パウロもテトスもテモテも人間であり、完全ではありませんから、倣うべきではないところもあったでしょう。大切なことは、私たちにとって善い行いの模範は神様とイエス様だけだ、ということです。

創世記では、私たち人間は神様のかたちに創造されたと書かれています。それは見た目が似ているということではなくて、私たちが神様の愛に応え、この世で神様に倣って生きる者とされたことを意味しています。私たちは不完全ながらも、神様の愛をこの世で表すことができるし、そうすることが期待されているのです。

預言者ミカは、神様が私たちに求めておられることについて、このように言っています。

「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書6章8節)

神様が求めておられることは、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと。それがどのようなことであるのか、私たちは聖書を通して神様を見上げ、またイエス様の歩まれた姿から学び続けます。神様を知ることが、善い行いを知ることであり、イエス様に倣うことで、私たちは善い行いへと向かって歩むのです。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『サイレント・アース 昆虫たちの「沈黙の春」』デイヴ・グールソン、NHK出版、2022年

『聖書の正義 イエスは何と対決したのか』クリス・マーシャル、いのちのことば社、2021年

『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年

Rudi ArltによるPixabayからの画像