礼拝メッセージ(2026年5月3日)「罪人を救うために」テモテへの手紙一 1章12~20節

イエスが先にパウロを信頼した
テモテへの手紙は、テトスへの手紙と共に「牧会書簡」と呼ばれています。この手紙はパウロからテモテに宛てて送られた手紙となっていますが、テモテだけが読むのではなくて、教会で一緒に読まれることを想定している内容となっています。
手紙の著者はパウロとなっていますが、パウロの信仰を受け継いだ信徒がパウロの名前を借りて書いた可能性もあるようです。当時は名前を借りて手紙を書くことは一般的なことでした。たとえ著者がパウロではなかったとしても、著者はパウロのことを知っていて、パウロの神学を受け継ごうとした人物だと思われます。ですから、著者はパウロだと思って読んでもいいでしょう。
この手紙の中で、パウロはイエス様への感謝を表しています。
「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。」(テモテへの手紙一 1章12節)
パウロが感謝したのは、イエス様がパウロを忠実な者・信頼できる者と認めて、奉仕の務めに就かせたからです。イエス様に認められるとなると、パウロは素晴らしい人格者だったのかと考えたくなりますが、実際はそうではなかったようです。
パウロ自身が、自分は信頼に足る者ではないことを語っています。
「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」(テモテへの手紙一 1章13節)
神様を冒涜し、イエス様の弟子を迫害し、暴力を振るう者であったパウロは、神様に忠実ではありませんでしたし、とても信頼できそうな人物ではありませんでした。彼は教会を滅ぼそうとしていました。弟子たちを殺そうとさえ意気込んでいましたし、キリスト者は男女問わず捕らえて縛り上げようとしていました。
普通であれば、このような人物を使徒として選び、宣教の働きを信頼して任せることはとても考えられません。1章20節でパウロは神を冒涜したヒメナイとアレクサンドロの二人をサタンに引き渡したと語っています。それは教会から破門し、追放したということですが、かつてのパウロがまさに、教会から追い出されるような人物だったのです。
パウロは自分のことを「罪人の中で最たる者」(1章15節)、罪人の頭だと告白しています。それでもイエス様はパウロを使徒として選び、パウロが忠実で信頼できる者であると認めて、重要な働きを託しました。パウロが先に信頼に足ることを証明したのではなくて、イエス様が先にパウロを認め、信頼したのです。それは当たり前のことではなく、驚くべきことでした。
罪人を救うために来られた方
パウロの選びは常識外れなことですが、イエス様がこの世に来られた目的には適っていました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモテへの手紙一 1章15節)
この言葉は真実です。比喩ではなく、そのまま受け入れられる言葉です。イエス様は罪人を救うためにこの世に来られました。神様は罪人が救われることを求めておられるのです。
マルコによる福音書2章には、イエス様が罪人を招いた出来事が書かれています。イエス様は徴税人のレビに向かって、「わたしに従いなさい」と言って、イエス様の弟子になるように招きました。徴税人はローマ帝国の支配下で仲間から税金を取り立てていたために、裏切り者の罪人だと見なされ、嫌われていました。
そのことは当然、イエス様もご存知だったはずですが、そんなことをまったく気にする様子はありません。イエス様はレビを弟子に招いただけでなく、レビの家で大勢の徴税人や罪人たちと一緒に食事をしました。一緒に食事をすることは、その人たちの仲間であり、友人であることを表す行動です。イエス様は罪人の仲間、罪人の友となりました。
そのようなイエス様の行動を快く思わない人たちもいました。自分たちが正しい者であることを誇っていたファリサイ派の律法学者たちです。徴税人や罪人とは一切関わらないようにしていた彼らにとって、イエス様の行動は理解不能だったので、弟子たちに問いただしました。その問いに、イエス様はこのように答えました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコによる福音書2章17節)
置かれた状況の異なる罪人
イエス様が正しい人ではなく、罪人を招くために来られたことははっきりしています。ただ、罪人とはどのような人のことかというと、そこには幅があるように思います。徴税人のレビも、パウロも、どちらも「罪人」と言われますが、なぜ罪人と呼ばれるのか、誰が罪人と呼んだのか、ということには違いがあります。
徴税人には、ルカによる福音書に登場するザアカイのような徴税人の頭もいますが、多くの徴税人は頭に雇われて税金の取り立てを行っていました。徴税人は規定以上に税金を取り立てて私服を肥やすと言われますが、金持ちになったのは徴税人の頭であって、雇われた徴税人の多くは貧しかったようです。
働いても金持ちにはなれず、仲間から裏切り者の罪人だと言われる職業を、自ら選ぼうとする人は少ないでしょう。徴税人の多くは、生きるために仕方なく、その仕事をしていたのでしょう。支配者であるローマ帝国に利用され、同胞との関係は深く傷つけられ、神様の祝福を受ける資格がないと見なされた人々が、ファリサイ派などから「罪人」だと呼ばれていました。
一方のパウロはフィリピの信徒への手紙の中で、自分のことをこのように紹介しています。
「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピの信徒への手紙3章5~6節)
これらの特徴は、自分にとって有利であった、とパウロは語っています。彼はファリサイ派の一員として忠実に律法を守る「正しい人」だと見なされていたのでしょう。そして律法をないがしろにする「罪人」や、罪人の仲間となるキリスト者を熱心に迫害していたのです。誰も彼のことを罪人などとは言わなかったでしょうし、彼自身、自分は誰よりも「正しい者」だと思っていたのでしょう。
しかしそのようなパウロの傲慢さは、イエス様と出会ったことによって打ち砕かれました。自分が正しいこと、良いことだと思っていたことが、実は神様の御心に反することであり、人を切り捨て、追い詰め、滅ぼすことだと気づかされたのです。そのようなパウロは神様の目から見れば「罪人」であり、パウロ自身が自分は罪人であったと自覚するようになりました。
つまり、「罪人」と言っても、人々から「罪人」と呼ばれる人もいれば、神様から「罪人」と見なされる人もいるわけです。その立場は真逆のようになっていることもありますが、神様とのつながりが断たれ、隣人との関係が壊れてしまっていることは共通しています。置かれた状況は違っていても、そのような意味で私たちは誰もが罪人なのです。
神の恵みとイエスの愛を示す手本
イエス様は罪人を招き、救うためにこの世に来られました。その「罪人」には私たちも含まれています。「罪人」が徴税人たちのように力を失い、見捨てられた人たちであるとき、イエス様は自ら歩み寄り、共に食事をして友人となり、新しい生命をお与えになります。
一方、「罪人」がパウロのように傲慢で、自分は正しいと思い込みながら、他者を追い詰める人となっているときには、そのような罪を明らかにして裁かれます。しかしそれは罪人を滅ぼすためではなく、悔い改めさせ、別の道を歩ませるためです。
パウロは自分が先に選ばれたのは、罪人たちの手本とされるためだった、と語ります。それはパウロが大きな業績を上げたとか、素晴らしい人格だったとかいうことではありません。むしろ自分では償いきれない罪を犯した罪人の頭であったパウロが、神様の恵みとイエス様の信仰と愛によって救われ、変えられたことを証ししているのです。
パウロの救いのために、イエス様は限りない忍耐を示されました。罪人が救われるために、イエス様は汚名を負い、苦難を担い、忍耐して待ち続けてくださいます。パウロのためにイエス様がなされたことは、私たちのためにもなされることです。パウロは神様の恵みとイエス様の愛を受けることでどのように変えられるかを示す手本なのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年
『〈新約聖書Ⅴ〉パウロの名による書簡 公同書簡 ヨハネの黙示録』新約聖書翻訳委員会、岩波書店、1996年

