礼拝メッセージ(2026年6月14日)「弱さの中でこそ強くなる」テモテへの手紙二 2章1~13節

強さを求められること
皆さんはスポーツを観戦するでしょうか。今年は冬のオリンピックや野球のWBCもありましたし、サッカーのW杯も始まりました。世界のトップレベルの選手たちがしのぎを削る姿は迫力や緊張感があって盛り上がります。日本の選手も今では海外で活躍する人が何人もいて、強くなってきたことを感じさせられます。
今日の箇所には「競技に参加する者」という言葉も出てきます。古代ローマでは、馬に引かれた戦車での競走や、単距離走、槍投げ、円盤投げなどの陸上競技などが行われていました。競技場も作られ、ローマ市民の日常にスポーツが根付いていったようです。
勝利することを目的としたスポーツでは、より強くなることが必要です。スポーツ選手は戦う相手・競争相手よりも強くなるために日々トレーニングを重ねています。多くの人が選手をサポートし、監督やコーチが指導し、作戦を立てて、強い選手・強いチームを作り上げていきます。
強さが求められるのはスポーツだけに限りません。私たちも色々なところで強さを求められます。学生時代にはより良い成績をとれるように、勉強し続けることが求められます。部活でも、大会を勝ち上がっていくために練習を重ねます。
社会に出てからも、会社の業績に貢献するように、それぞれの能力を発揮し、また能力を向上させることも求められます。仕事に限らず、家庭でも、地域社会でも、色々なことが求められますが、それを担う強さも必要とされます。
強いことはいいことだ。強ければ強いほどいい。強くあり続けることが必要で、弱いところは強くしないといけない。弱さを見せることはできないから、強がったり、強く見せたりしようとする。そんな考えが私にもありますし、今の社会の中にも根付いているような気がします。
ただ、強さというのは相対的なものであって、努力しても自分より強い人に出会うことはあります。一度強くなっても、ずっと強いままでいられるわけではありません。またすべてのことにおいて強い人もいませんし、誰もが何かしらの弱さをもっています。病気になったり、怪我をしたり、色々な理由で思いがけずに弱さを担うことも起こります。
自分の力を伸ばせるときには、強くなろうとすることを楽しめることもあるでしょう。また自分の強さによって成果を出せたならば、それはとてもうれしいことです。ただ、強くなれないときや、弱さを抱えているときに、強くあり続けることを求められるのは苦しいことです。
パウロの弱さと神様の恵み
パウロはテモテに向かって「強くなりなさい」と語りかけます。この時、テモテは弱っていました。パウロから託された働きをうまく果たせなくなっていて、教会に生じた問題をに悩み、解決できないことに落ち込んでいたのかもしれません。
そんなテモテに「強くなりなさい」とパウロは語りかけます。ただそれは、「もっと努力しなさい」とか、「気合いで乗り越えなさい」というだけのことではありません。パウロはこのように言いました。
「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」(テモテへの手紙二 2章1節)
テモテはパウロの実の息子ではありませんが、パウロにとっては我が子と思えるような存在だったのでしょう。「わたしの子よ」と愛情をもって呼びかけながら、彼はテモテが「キリスト・イエスにおける恵みによって」強くなることを願いました。その意味を考えるために、パウロが書いた他の手紙も読んでみましょう。
コリントの信徒への手紙二の12章で、パウロは自分の弱さについて語っています。彼の身体には「一つのとげ」が与えられていました。その「とげ」が何を意味するのかはっきりしませんが、激しい痛みをもたらす病気であったのかもしれませんし、うまく話すことができなくなるような言語障害であったのかもしれません。
いずれにしても、それはパウロの宣教活動の障害となりました。少なくともパウロ自身は、この「とげ」さえなければもっと福音を伝えられるのに、というもどかしさがあったのでしょう。あるいはその「とげ」から生じる痛みや苦しみが彼を弱らせていたのかもしれません。
パウロはその「とげ」を取り除いてくださるようにと神様に三度願いました。「三度」というのは、文字通り3回という可能性もありますが、何度も繰り返した、という可能性もあります。何度も繰り返し助けを求めたならば、この「とげ」がパウロをどれほど苦しめていたのか、ということを想像できます。
あるとき、繰り返し助けを求めるパウロに対して、神様はこのように答えました。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二 12章9節)
パウロは力を求めていました。強くありたいし、強くならなければならないと思っていました。そのためには自分の弱さは障害でしかなく、取り除かれるべきだと考えていました。しかし、神様の答えは彼の願いとは異なりました。神様からの恵みは、パウロにとって十分なものでした。神様の力は、パウロの強さの中ではなく、むしろ弱さの中でこそ十分に発揮されるからです。
イエス様の愛
神様の言葉を聞いて、強さを求めていたパウロは自分の弱さも誇れるように変えられました。自分の弱さの中でもイエス様が共にいてくださり、神様の力が十分に発揮されることに気づかされたからです。だからパウロはこのように言うことができました。
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(コリントの信徒への手紙二 12章10節)
テモテに手紙を書いたとき、パウロは囚人の身となっていました。まさに「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」にありました。そのパウロがテモテに求めた強さとは、弱さを克服した強さではなかったのかもしれません。パウロはテモテに、「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」と言いました。それはテモテの弱さの中で神様の力が発揮されることによって強くなることなのでしょう。
先ほど『主われを愛す』という讃美歌を歌いました。この讃美歌の作詞者はアンナ・バートレット・ワーナーさんです。アンナさんが書いたこの歌詞は、姉の書いた小説の中に登場しました。それは病気の少年ジョニーを慰める先生の言葉として書かれました。
この讃美歌の誕生秘話などを治めた本を書いた大塚野百合さんは、この歌詞をこのように訳しておられます。
1.イエスは私を愛しておられる! 聖書はそのように私に告げている。
子どもたちは主のものです。彼らは弱くても、主は強い。
2.イエスは私を愛しておられる! 主は命を捨てて、天国の門を広く開けてくださった。
主は私の罪を洗い流される。主の子どもみなそばに来なさい。
3.イエスは私を愛しておられる! いつも。 私はとても弱く、病んでいるけれど。
主は天の輝く玉座から、 私の寝ている所に来られ、私を見守ってくださる。
4.イエスは私を愛しておられる! 主はいつも私のすぐそばに寄り添ってくださる。
私が主を愛すると、私が死ぬとき、 主は私を天のふるさとに、つれていってくださる。
(くりかえし)
本当にイエスは私を愛しておられる 本当にイエスは私を愛しておられる
本当にイエスは私を愛しておられる 聖書がそのように私に告げている
(『「主われを愛す」ものがたり~賛美歌に隠された宝~』大塚野百合、教文館)
私たちの弱さの中でもイエス様が共にいてくださって、その中にも神様の力が十分に発揮される。それはイエス様が私たちを愛してくださっているからです。神様は真実でおられ、その愛は失われることがないので、私たちは弱さの中でも神様を信頼することができるのです。
主に仕え、従い、報いられる
キリスト・イエスの恵みによって強くされたテモテに、パウロは働きを委ねることを教えています。パウロから聞いたことをテモテだけが担うのではなく、ほかの人々にも委ねなさい、と勧めます。強くされたからといって、全てを一人に背負い込む必要はありません。
さらにパウロは3つの働きの例を挙げます。それは兵士と競技者、そして農夫です。ここでの兵士は報酬で雇われた傭兵のことです。傭兵として働く間、彼は他の事柄には目も向けず、雇い主である主人の意向を達成しようと努めます。それと同じように、主の御業に仕えるときには、私たちは主の御心に適う働きをしようと努めるでしょう。
また、競技に参加する者は、それぞれの競技の規則に従って競いあいます。規則に従わなければ、良い結果をつかみ取ることはできません。主に仕える者にとっての規則とは、主の定めた掟であり、主の教えのことでしょう。主の御心に適い、祝福を分かち合う結果をもたらすためには、主の掟や教えに従うことが大切です。
また、農夫が収穫を得るためには多くの働きをしなければならず、そこには労苦が伴います。この収穫の分け前は農夫だけのものではありませんが、労苦した農夫が最初に分け前に与るべきです。主に仕える働きにも様々な労苦が伴いますが、主のために労した人々には、神様からの恵みが最初に分け与えられるでしょう。
私たちは誰もが弱さをもっています。しかし私たちを愛してくださる神様は、その弱さの中に伴ってくださり、その弱さの中で神様の力を発揮させてくださいます。そのような神様の恵みによって強くされたとき、私たちはそれぞれの仕方で主に仕え、主の教えに従って歩みます。その歩みには時に労苦が伴いますが、主が報いてくださり、私たちにも、また私たちが出会いつながる人々にも、祝福を分け合わせてくださるでしょう。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年
※Mila Okta SafitriによるPixabayからの画像

