礼拝メッセージ(2026年7月19日)「失敗も見守る」サムエル記上8章1~22節

神を捨て、人間の王を求めた人々
祭司エリのもとで育ったサムエルは、イスラエルの指導者となり、人々が「心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕え」るように教え、導きました(7章3節)。ペリシテ軍が攻めてきたときには、サムエルは主に焼き尽くす献げ物をささげ、主に助けを求めて叫びました。すると主がペリシテ軍を混乱させたので、人々はペリシテ軍を退けることができました。
毎年、各地の聖所を巡り歩きながら教え導くサムエルがいることで、イスラエルの人々は安心していたことでしょう。けれどもいつまでもサムエルが指導者でいられるわけではありません。時が経ち、高齢になったサムエルは、自分の後継者として二人の息子たちを任命しました。人々はサムエルの息子たちが父サムエルと同じように自分たちを導いてくれることを期待していました。
ところがその期待は叶わず、サムエルの息子たちは父のように主に仕えることができませんでした。彼らは「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」(8章3節)ので、人々は彼らを信用することも、従うこともできなくなりました。拠り所を失い、人々は将来への不安を感じました。周りの強力な国々の中で自分たちは大丈夫だろうか、と。
そこでイスラエルの人々はサムエルに他の指導者を求めました。その指導者は、もはやサムエルの後継者ではありません。他の国々のように、人々の上に立つ王を新たな指導者として求めたのです。これまでは神様が士師と呼ばれる指導者をその都度立ててくださり、各部族が協力して対処してきました。それに対して、人々が求めた王は全権力を掌握する強力な支配者でした。
サムエルはこのことが悪いことだと思えたので、主に祈り尋ねました。すると主は、「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(8章7節)、と答えました。神様こそがイスラエルにとって真の王であり、人々が頼り、従うべきお方です。けれども人々は目に見え、武力を備えた人間の王を求めました。
王が立てられても、その王が主の御心を求め、主に従って歩むならば、イスラエルは神様の治める国となることができるでしょう。しかし王が神様に背を向けるならば、そのときイスラエルも他の国々のように人間が支配する国となります。王を立てることには、神様を捨て、他の神々や、神ではない人間に仕えることになってしまう、という危険性が伴っていました。
王の権能への警告
王を与えよという言い分は、サムエルの目には悪と映り、神様もご自身を退けることだと指摘しました。それにもかかわらず、神様はイスラエルの人々の要求に従うようにサムエルに命じました。神様はこの箇所だけで3度も、「彼らの声に従いなさい」とサムエルに言いました。
「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。」(8章7節)
「今は彼らの声に従いなさい。」(8章9節)
「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」(8章22節)
このように繰り返し語られるところに、サムエルの戸惑いと神様の決断を感じます。ただそれと共に、神様はイスラエルの人々にはっきり警告することもサムエルに命じました。警告されることは人々の上に君臨する王の権能についてです。王はサムエルとは違って、人々を抑圧し、搾取することで強大な力を得ていくからです。
王は息子たちを徴兵し、自分の戦車の前を走らせます。王が先頭に立って戦うのではなく、息子たちが王の前を走らされ、命を差し出すことになります。また王は収穫や武器製造のためにも息子たちを徴用し、娘たちは調理などのために徴用します。さらに農地も没収して王の家臣たちに分け与えられ、収穫や家畜の十分の一も徴収されます。
このようにして王やその家臣たちは力を増し、豊かになりますが、人々は搾取され、抑圧され、苦しめられることになります。確かに王は国を強くするかもしれませんが、そのために王は国民を自分の奴隷としてしまうのです。エジプトの奴隷であったけれども、神様によって助け出された人々の子孫が、自ら王を立て、その奴隷になろうとしている、というのは皮肉なことです。
そのような警告にも人々は聞き従おうとはせず、「我々にはどうしても王が必要なのです」(8章19節)と言い張りました。この後、サムエルは神様によって選ばれた王を立て、イスラエルは王国を作ります。そしてサウル、ダビデ、ソロモンという最初の王たちのもとで急激に国力を高め、勢力を広げ、イスラエル史上最高の繁栄を手にすることになります。
それは人々が願ったことだったのかもしれません。けれどもその代償として人々には過酷な労働が強いられ、それが発端となって国が分裂することになります。時には主に従う王が現れることもありましたが、主の目に悪とされることを行う王もたびたび現れ、最終的には分裂したどちらの国も滅亡することとなってしまうのです。
神様と人との距離感
私たちはこのような歴史を知っていますので、神様が警告した通りになることがわかります。イスラエルの人々が他の国々のように王を求めたことは間違いだったのだから、なぜ神様は人々の要求を聞き入れたのだろうか、という疑問も浮かんできます。人々が悪の道を進もうとしているならば、その前に止めてくださらないのだろうか、とも考えます。
この出来事を読みながら、神様は私たちと適度な距離感を保っておられる、ということを感じました。神様の目には何が良いことで何が悪いことであるのか、人が選ぼうとしていることがどのような結果をもたらしうるのか、ということが見えています。しかしそうだからといって、神様は人の行動を強制的に変えさせたり、操作したりすることはなさいません。神様は私たちを意のままに操ることはなさらないからです。
ただそれは、神様が私たちに無関心であることを意味しません。この出来事でも警告を与え、改めて考えさせようとしておられます。神様が良いと思われる道を歩まず、神様を捨てようとしているときでさえ、神様は人と向き合い、教え導こうとされます。時には怒りや嘆きのような感情さえも露にしながら、神様は私たちに関わり、祝福を得る道を歩ませようと働きかけてくださるのです。
距離感というのは難しいもので、私たちも人との距離感に悩まされることもあるでしょう。特に親子関係や上司と部下、教師と生徒のように、教え導く関係では、適切な距離感を保つことは難しいものです。
教える側の方が先を見通せますし、影響を与えやすいため、つい先回りして指示したり、良かれと思って手を出しすぎたりしてしまいがちです。しかしその結果が思った通りになるとは限らず、教えられた側の自立や成長につながるとはかぎりませんし、むしろ主体性や積極性を奪うことにつながることもあります。
もし神様が人の行動や選択をすべて支配したらどうなるでしょうか。その場合には、人が引き起こす問題は大きく減るかもしれませんが、人はもはや自分で考えたり、選択したりすることができなくなるでしょう。指示されたことを実行するだけのロボットのようになった人間には、神様を讃美することも、恵みを喜び感謝することも、祈りや礼拝を捧げることもできなくなってしまうでしょう。
神様が望んでおられるのは、私たちが自ら神様の呼びかけに応答して、与えられた恵みを分かち合い、祝福を分け合って幸せに生きることです。そのために神様の教えを受け入れ、導きに従って歩もうとすることを神様は望んでおられます。だから神様は、たとえ御心に沿わない要求であっても、それを容認することがあり得るのです。
忍耐強く共に歩まれる神様
それでも、神様を退け、他の国々と同じようになることを必死に求めるイスラエルの人々の選択は、神様ご自身にとっても辛く、悲しいものだったでしょう。ましてその結果が喜ばしいものではなく、人々が王の奴隷となってしまうというのですから、それを容認することは、神様にとっても忍耐が必要となることだったでしょう。
イスラエルの人々は、自分たちが望んだとおりに王を立て、王国を作っていきます。そうすることで強大な力を得ようとしますが、その弊害を負うことになるのも彼ら自身――正確には彼らの子孫たち――です。その責任を神様に押しつけることはできません。警告に耳を閉ざして自分たちで選んだのですから、その結果を自分たちだけで引き受けることは、当然とも言えるでしょう。
だから神様はイスラエルの人々を見放すこともできました。そもそもイスラエルの人々の方が神様を退けたのです。しかしそれでも神様はサムエルを遣わしてサウルを王として選びました。その道は神様が導こうとした道ではありませんでした。それでも神様はその道を人々と共に歩み、御心に適う道へと――祝福と幸いへの道へと――導こうとされたのです。
失敗することが分かっているのに、それを容認することだけでも忍耐が必要です。それに加えて自分も共にその道を歩むというのは、なおさら忍耐が求められるでしょう。神様が私たちと共に歩んで下さっている、ということは、私たちが神様に向きを変え、祝福と恵みを受け取り、それを分かち合う道へと自ら進んでいくことを、神様が忍耐強く待っていてくださる、ということなのです。
イスラエルの人々が神様を退け、将来への不安から自分たちの想いに捕らわれてしまい、失敗へとつながる選択に固執してしまったように、私たちも神様に背を向け、神様の呼びかけに耳を閉ざし、失敗へと向かって歩んでしまう者です。しかしそのようなときにも、神様は忍耐強く私たちと共にいてくださり、私たちが向きを変えることを待っていてくださる。そこに神様の深い愛を感じます。私たちは神様の忍耐と愛に感謝し、神様に応答して歩んでいきたいと思います。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『ATD旧約聖書註解(7) サムエル記 上』ハンス・ヴィルヘルム・ヘルツベルク、山我哲雄訳、ATD・NTD聖書註解刊行会、1996年
『新共同訳 旧約聖書略解』木田献一監修、日本キリスト教団出版局、2001年
※Engin AkyurtによるPixabayからの画像

