礼拝メッセージ(2026年8月16日)「主の家に帰る」詩編23編1~6節

主は羊飼い
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」(詩編23編1節、聖書協会共同訳)
この告白から始まる詩編23編は、私たちの主である神様がどのようなお方であるのか、ということを端的に言い表しています。この詩に込められた神様への期待と信頼が、これまでも多くの人の心に響いてきました。
羊飼いというのは、ユダヤの人々も含めて、古代中近東の世界ではよく知られた存在でした。聖書にも羊飼いをしていた人物や羊飼いのイメージが繰り返し語られているように、この地域では誰もがすぐに思い浮かべられる働きでした。
羊飼いの働きは、その名の通り羊を飼うことです。ただしそれは現代のように牧場の柵の中で飼っていたのではありません。中近東の羊飼いたちは、水や草も限られていた荒野で羊の群れを飼っていました。
その羊飼いの第一の働きは、群れの羊たちに水や食料を与えることです。羊飼いたちは井戸から水をくみ上げて与えたり、食料となる草地へと連れて行ったりしました。また、羊を襲う猛獣とも戦って、羊を守りました。羊飼いは昼も夜も羊たちの傍にいて、一匹一匹の名前を覚え、目を配り、羊たちが生きられる道へと導き、敵から守ったのです。
「主は羊飼い」と言っても、それは神様が羊を飼っている、ということではありません。もちろん神様はこの世の創造主であり、すべての生命の主ですから、羊も含めたすべての生命・すべての生き物に心を配っておられます。それでも神様が羊飼いとなって羊を導き守っている、というわけではありません。
「主は私の羊飼い」という告白は、神様と私たち人間との関係が羊飼いと羊の群れのようなものだ、という意味です。神様は昼も夜も、いつも私たちと共にいてくださって、私たちが良く生きられるように導いてくださり、襲い掛かる敵や困難から身を挺して守ってくださるお方なのだ、ということです。
恵みと慈しみが私を追う
「主は“私の”羊飼い」という告白は、個人的な信仰告白にも見えますが、この背後にはユダヤ民族が経験してきた神様の救いの出来事がありました。過去の救いの出来事を思い起こすことで、神様がこれまでにおこなってくださったことを、今も、そしてこれからもおこなってくださる、という期待と信頼が培われてきました。
ユダヤの人々にとって最も重要な救いの出来事は“出エジプト”です。人々は奴隷とされていたエジプトから導き出され、40年の間、荒野を旅して、約束の地へとたどり着きました。神様は苦しみ嘆く人々の叫びを聞き、そこから導き出してくださいました。また、追いすがる敵に立ち向かい、命を守ってくださいました。荒野を旅する間は水や食料を与え、養ってくださいました。
このように神様に導かれ、守られ、養われた経験を何度も何度も繰り返してきたことによって、神様に期待し、また信頼する信仰が養われていきました。神様がいつも共にいてくださって、私たちを導き、守り、養ってくださる。だから何も欠けることがないと信じるのです。
それは私たちに苦難や困難が起こらない、ということではありません。詩人は私たちが「死の陰の谷を行く」(4節)ようなときがあると言っています。「わたしを苦しめる者」(5節)がいることも語っています。私たちの人生がいつも順風満帆であるわけではなく、時には災いが襲い掛かり、時には敵が立ちふさがり、魂が疲れ、恐れを抱き、苦しみ悩むことがあります。
しかしそのようなときにも、神様への期待と信頼を持ち続けることを、この詩が訴えかけてきます。苦難や困難の時にも、神様は私たちと共にいてくださり、そこから救い出し、休ませ、生き返らせ、導き力づけ、恵みと慈しみを与えてくださるからです。
この世において、私たちを追いかけてくるのは何でしょうか。出エジプトのときのような敵や災いでしょうか。そのような時もあるかもしれません。しかしそれだけではありません。
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」(詩編23編6節)
神様の恵みと慈しみも、私たちを追い続けています。どのような苦難、困難の中にあっても、神様は恵みと慈しみを私たちに届けようとしてくださっている。だから私たちは神様に期待し、また信頼することができるのです。
主の家に帰る
「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23編6節)
この詩の最後に語られたことは、人生の終わりまで主の家に留まりたいという願いでした。主の家というのは、何か特定の建物のことではなくて、主の御許のことであり、主に導かれ、守られ、養われ続けることが願われています。それは羊飼いのもとで羊の群れが導かれ、守られ、養われることに似ているでしょう。
そのようなことを私も――私たちも――願います。ただそれは私たちからの願いであるだけでなく、神様が願っていることでもあるでしょう。私たちを――すべての人々を――ご自身のもとへ招きたい。それが主の御心であり、そのために主は御言葉を語り、御業をおこない続けておられます。
この願いはこの世だけのものではないのかもしれません。人がこの世の生涯を終えた後も、私たちは主の御許へ召されることを願い、また神様も私たちを――すべての人々を――ご自身のもとへと招きたいと思っておられる。生命のある限りだけでなく、この世の命を終えた後も、主の家に住まうこと、それが私たちと神様の共通した願い・御心なのではないでしょうか。
イエス様は弟子たちにこのようなことをおっしゃいました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章1~3節)
イエス様が私たちのために主の家に場所を用意してくださっています。だから私たちは、先に召された方々も、また私たちも、共に主の家に迎えられることを期待し、また信じるのです。
One less at home
だから私たちには、一人の死に際してもなお希望があります。ただそれでも、死による別れはとても辛く、悲しく、寂しいものです。私たちのもとから一人が失われたこと。特に大切な家族や友人、愛する人が失われたことは、私たちの心にぽっかりと大きな穴を空けてしまいます。
死という出来事について、他の視点から見ることを教えてくれた“One less at home”という詩があります。Sarah Geraldina Stockという方の作られた詩で、日本では戦前に植村正久という牧師が翻訳したものが知られています。その翻訳も味わい深いのですが、今日は現代の日本語に訳したものをご紹介します。
“One less at home” Sarah Geraldina Stock(Copilotによる翻訳)
家にはひとり減った。結ばれていた輪がふと途切れ、慣れ親しんだあの顔が、今日もそこに見えない。けれど今は、恵みによって清められ、救われ、満たされて、天にはひとり増えた。
家にはひとり減った。迎える声は静まり、告げられるはずだった別れの言葉も、もう地上にはない。別れのない岸辺へと、ひとつの魂が渡り着き、天にはひとり増えた。
家にはひとり減った。門口に立つと胸に迫る喪失の思い。家の中には、空いたままの席がひとつ。そして遠くでは、私たちの到来を待ち望む者がひとり、天にはひとり増えた。
家にはひとり減った。地上の霧のように冷たい思いが立ちのぼり、歩みを包み、涙を曇らせることもある。しかし天からは、まばゆい光が差し込み、天にはひとり増えた。
家にはひとり減った。ここは本当の故郷ではない。土の器に閉じ込められ、キリストを見るまなざしは曇り、愛も冷たくなりがちな場所。けれど、御顔を仰ぎ見て向き合うあの場所こそ、故郷であり、天なのだ。
地上にはひとり減った。痛みも、悲しみも、労苦も分かち合うこの地上で、巡礼者として背負う十字架を担う者がひとり減り、贖われた者の冠を受ける者がひとり増えた。天の故郷に迎えられて。
天にはひとり増えた。曇りの日々を照らすもうひとつの思いが与えられ、感謝と賛美の新しい理由がひとつ加わり、魂を天へと引き上げるもうひとつの絆が結ばれた。故郷と天へと向かうために。
天にはひとり増えた。その故郷では、もう離れることはなく、永遠に欠ける者もいない。
主イエスよ、どうか私たちすべてを、あなたと共にその故郷へ迎えてください。天の家にて。
主の家での約束
この詩にも聖書のいくつかの御言葉が反映しているように思えます。コリントの信徒への手紙で、パウロは天の住みかについてこのように言いました。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(コリントの信徒への手紙二 5章1節)
地上の住みかであるこの肉体は、いつかは終わりを迎えます。しかしそれで終わりではありません。天には滅びることのない永遠の住みかがあります。この世の命を終えた時、神様は私たちを引き上げ、永遠の住みかへと招いてくださいます。
また、ヨハネによる黙示録には、終わりのときの様子が語られています。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら 人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章3~4節)
この世の生涯で流した涙は、神様がことごとくぬぐい取ってくださいます。主の家では、もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もありません。そこに迎えられるという約束が与えられていることに感謝いたします。先に召された方々が主のもとで憩われていることを心に留めながら、私たちはこの世での生涯の中で、主のみもとに留まり、主と共に歩んでまいりましょう。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
J.L.メイズ著、左近豊訳『現代聖書註解 詩編』日本基督教団出版局、2000年
※Kurt PerssonによるPixabayからの画像

