礼拝メッセージ(2026年10月4日)「善悪をわきまえることが知恵」箴言1章1~7節

教育のための格言集

今月は旧約聖書の箴言を読みます。箴言は1章1節に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とあるように、ソロモン王の知恵の言葉が収められた書物だと言われてきました。けれども、30章が「アグルの言葉」とされているように、実際にはソロモンの言葉だけではなく、いくつかの格言集や勧告文がまとめられたものです。

「ソロモンの箴言」というのは、「ソロモンが語ったような種類の知恵の格言」ということを意味しています。ここでソロモンの名前が挙げられるのは、ソロモンが知恵の王として知られており、ソロモンの名前によって箴言の知恵を権威づけるためだったようです。

ソロモンが知恵の王として知られるようになった経緯は列王記上3章に書かれています。ある夜、ソロモンは夢の中で主に出会いました。主はソロモンに、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」とおっしゃいました(列王記上3章5節)。それに対してソロモンは、王としての務めを十分に果たすために、善悪を判断するための聞き分ける心を求めました。

主はソロモンの願いを喜び、ソロモンに言われました。

「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。」(列王記上3章11~12節)

主の前で謙遜になり、知恵を求めたソロモンは、王国を最も繫栄させた王となりました。彼は7年をかけて主のための神殿を建築し、また13年かけて宮殿を完成させました。ソロモンは知恵ある者となっただけでなく、知恵を求めることの大切さを、身をもって表す人物でもあるわけです。

ソロモンに代表される知恵は、ヘブライ語では“Ḥokmāh”と言いますが、それは学習によって得られる知識とは異なります。知恵(Ḥokmāh)は、実生活の中で生じる様々な問題や課題を解決する方法や能力のことです。つまり、職業上の技能や、家事など家の管理・運営、あるいは政治的な能力などが知恵(Ḥokmāh)なのです。

そのような知恵は、古代では口伝えで伝えられており、覚えやすい格言がよく用いられました。王国が成立すると、その格言を集めて国を担う人物を育てるための教材として用いられました。箴言もそのような目的でまとめられたものだと考えられています。その中には、私たちにとっても大切な気づきとなる知恵が含まれていることでしょう。

善悪をわきまえるための知恵

今日の箇所には、知恵を得させる目的も語られています。

「これは知恵と諭しをわきまえ/分別ある言葉を理解するため
諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため。
未熟な者に熟慮を教え/若者に知識と慎重さを与えるため。」(箴言1章2~4節)

箴言が教える知恵は、物事の善悪を正しく理解し、正義と公正と公平を自分のものとして受け入れ、軽率な考えに流されないで慎重になるためのものです。主に知恵を求めたソロモンも、その理由をこのように述べていました。

「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(列王記上3章9節)

善悪をわきまえ、正しく民を治めることが王にとって――何より王が治める民にとって――重要なことであり、そのための知恵をソロモンは求めました。自分が長寿になることや、莫大な富を得ること、立ち向かう敵を倒すことよりも、人々を裁く王に不可欠な「訴えを正しく聞き分ける知恵」が、ソロモンにとっては第一に必要なものだったのです。

このようなソロモンに対して主は富と栄光を与えることを約束し、ソロモンは国を最も繁栄させた王となりました。しかしそれは結果的にもたらされたものであって、富や栄光のための知恵をソロモンが求めたわけではありません。聖書の教える知恵はこの世での成功や繁栄のために利用されるものではないことには注意が必要です。

本来、イスラエルは主が選んだ民であり、その王国は神の民の国となるという目的がありました。神の民の国となるためには、他の国よりも繁栄することではなく、主の御心にかなった政治が行われ、主の正義と公正と公平を国の中に表すことが必要なことです。善悪をわきまえる知恵はそのために不可欠なものでした。

無知な者と主を畏れる者

このような知恵は、現代においても大切にされているのでしょうか。格差が広がり続ける今の世界では、競争に勝ち残り、富や権力を独占するための知能が重視されているように見えます。人間を超える超知能をもつとされるAIの開発競争は、そのような傾向の典型的な一例でしょう。

しかし、AIが急速に進歩しても、箴言が教える知恵を持つようになるかどうかは疑わしいでしょう。AIには箴言の言葉すべてを覚えることは一瞬でできますが、そこで教えられている善悪をわきまえる知恵を身に着け、それに基づいて行動を変えていくということは、今の進歩の方向性とは真逆なことかもしれません。AIには苦手であり、現代社会でも軽視されているのが、箴言の知恵――善悪をわきまえる知恵――なのでしょう。

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴言1章7節)

箴言は、主を畏れることが知恵のはじまりであると訴えています。正しい知識を身に着け、それを善い目的のために用いていくための前提となる知恵は、主を畏れることから始まる、という意味です。主を畏れることがなければ、どれほどの知識も、人知を超える知能も、善悪をわきまえることができずに、善いものを生み出さず、悪い事態を引き起こしてしまうのです。

主を畏れることは、自分が主の支配の下にあることを自覚し、主の教えに従順であろうとすることです。人間が大きな力を持つと、この世を自分が支配しているのだという傲慢さを抱いてしまいがちです。主への畏れを持つならば、謙遜になりますし、慎重にもなるでしょう。過ちを犯しやすい私たち人間には、それは必要なことです。

「無知な者」とは、知識の量や成績とは関係なく、主を畏れない者のことです。それは助言を受け入れず、聞く耳を持たず、傲慢になっている者のことです。支配的な立場にあっても、無知な者は珍しくありませんし、そのような意味ではAIも知恵を持たず、無知になる方向に進んでいるのかもしれません。

私たちは箴言の時代に比べて、はるかに多くの知識を持ち、また様々な情報を得ることができる環境に置かれています。けれどもそのような環境は、知恵を得させることにつながるとは限りません。できることが増えてしまった分、私たちも「無知な者」となりやすくなったとも考えられます。

様々な情報に溢れているからこそ、それを正しく理解して、活用する能力が大切だと言われています。フェイクニュースのように、誤った情報が意図的に流されることも珍しくありません。AIを使えば画像や動画さえ簡単に偽装されてしまいます。情報に惑わされない能力が求められます。

しかし大切なことはそれだけではないでしょう。様々な危機が積み重なっている今だからこそ、必要とされているのは、箴言が伝えるような知恵――善悪をわきまえるという知恵――なのではないでしょうか。主を畏れ、謙遜に、また慎重に考え、何が善いことであり、何が悪いことであるのかを示す主の御心を求めることが必要です。

善悪をわきまえることは、当たり前のことではありません。限りない力や富を求め続けることが善だとは言えませんし、敵だと思いこまされてきたものが悪だとも限りません。善悪をわきまえる知恵を受け取っていくために、主の言葉に心を開き、主の御心を尋ね求めていきたいと思います。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

木田献一監修『新共同訳 旧約聖書略解』日本キリスト教団出版局、2005年

旧約新約聖書大事典編集委員会『旧約新約聖書大事典』教文館、1989年

旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書Ⅳ』岩波書店、2005年

※Yerson RetamalによるPixabayからの画像