礼拝メッセージ(2026年9月27日)「敵の手から救い出す」サムエル記下22章17~31節

「敵」という言葉への注意
サムエル記下22章には、ダビデが主にささげた歌が記されています。この後の23章にはダビデの最後の言葉がありますので、22章はダビデが晩年にささげた歌のようにも見えます。一方、22章1節では、「主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日」のものだとされていますので、彼がもっと若いときにささげた歌なのかもしれません。
この歌は詩編18編にもほとんど同じ形で納められています。この歌の中でダビデを脅かした敵のことが語られていますが、詩編には他にも敵について語ったものが多くあります。苦しめる者や攻める者、迫害する者、立ち向かう者など色々な表現で敵について語っています。今日の箇所でも敵について「わたしを憎む者」(18節)や「刃向かう者」、「不法の者」(49節)と呼んでいます。
自分を脅かす敵についてたびたび語られるのは、それだけ敵の存在が大きな問題となったからなのでしょう。自分の存在を脅かし、力を奪って弱らせ、場合によっては命さえ危険に晒されるような敵の存在は、誰にとっても無視することのできない問題です。
この「敵」の問題について今日の箇所から考えたいと思いますが、「敵」という言葉の使い方には気をつけたいと思います。22章38~39節には、「敵を追い、敵を絶やし、滅ぼすまで引き返さず、彼らを餌食とし、打ち、再び立つことを許さない」というダビデの思いが語られています。実際に敵を滅ぼし尽くすようなことが行われたわけではなくても、このような記述を取り上げて、暴力の正当化に利用されることは繰り返されてきました。
現在でもイスラエルのネタニヤフ政権はガザ地区のパレスチナ人を虐殺し、民族浄化を続けています。イスラエル国民に「パレスチナ人は敵だ、同じ人間ではない、追い出し、滅ぼすべき相手だ」と思いこませてきました。「敵」という言葉を使うことによって、暴力に制限がなくなり、悲惨な事態をもたらしてしまうことがあります。
特に力を持った側が敵意を煽るときには、その言葉に惑わされないように注意しなければなりません。聖書の言葉の多くは、「他のどの民よりも貧弱であった」(申命記7章7節)人々に向けて語られたものです。力を持った者が聖書の言葉を利用することは、本来の神様の意図から離れている危険性があることを心に留めておきましょう。
そしてもう一つ、「敵」に関するイエス様の教えも同時に覚えたいと思います。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(マタイによる福音書5章43~45節)
守り助けてくださる神様
ダビデはイスラエルの王となり、いくつもの戦いに勝利するなど大きな力を持ちました。しかしこの歌は強い支配者の歌ではなく、力なく、弱かったダビデの歌として考えたいと思います。28節では、主が貧しい民を救い上げ、傲り高ぶる者を引き下ろすと歌っているように、弱く貧しい者の願いと、それに応えてくださる主との関係を歌っているものだからです。
私たちも力を失い、弱くなることがあります。敵に襲われたことで力を失うこともあれば、弱った時に敵が襲ってくることもあります。いずれにしても、自分を脅かす敵は脅威です。ダビデは敵に脅かされ、弱ったときのことを、死や陰府と関連づけて語っています。
「死の波がわたしを囲み/奈落の激流がわたしをおののかせ/陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。」(22章5~6節)
聖書において死とは神様から与えられた生命の息を失うことです。敵は生命の息を損なわせる者、生命の息から受ける力を失わせる者です。また陰府とは死の国のことで、そこではあらゆる関係が絶たれます。神様からも引き離され、人とのつながりも引き裂かれ、ただ一人になってしまうならば、希望を見いだすことも、立ち上がることも難しくなります。
そのように力を失い、弱ったときには助けが必要です。ダビデも助けを求めました。彼はその助けが主から来ることを確信し、主に自らを委ねていました。そして主によって助けられ、救われたダビデは、主を讃美しました。
「主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。
わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え/不法から救ってくださる方。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。」(22章2~4節)
主である神様の特徴について、これほど重ねて語ることは珍しいことです。興味深いのは、ここに挙げられた神様の特徴が、攻めることではなく、守ることについて語っていることです。映画でもアニメでも敵を倒す物語が多いと思いますし、聖書でも敵と戦って勝つという記録が多くみられます。しかし、人を敵から助け、救われる神様は、敵からの逃れ場や避けどころとなり、敵から守る盾となり、砦となってくださる方なのです。
「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。」(22章17節)
神様は力を失い、弱った私たちにも、再び生命の息を注ぎ込み、新しい力を与えてくださいます。襲い来る脅威から私たちを守り、逃れの道を開き、私たちを引き上げてくださいます。それは奇跡的な出来事ではないかもしれません。ダビデが色々な人に助けられたように、私たちも色々な人を通して助けられてきたことでしょう。それも含めて神様は弱く、脅かされている人々を守り、助け、救い出してくださるのです。
敵の手から救い出す方法
「敵」といっても、それは武器を持って攻めて来る相手だけではありません。詩編の中で色々な表現で語られていたように、人を脅かしたり、苦しめたり、憎んだり、排除したり、敵対したりするなど、色々な形があります。それと同じように、敵の手から救い出すという仕方も一つだけではありません。少なくとも戦って勝つということだけが唯一の手段ではないでしょう。
ダビデとサウルの関係を振りかえってみると、ダビデがサウルに敵意を向けられたときには、彼はまずそこから逃げ出しました。逃亡中には協力者が与えられ、逃れ場を見つけることもできました。その中でサウルの命を奪うことのできる機会もありましたが、彼は復讐よりも対話を選び、関係を変えることを試みました。サウルの死後、ダビデが王となってからも、サウルの子孫を絶やそうとはせず、むしろ保護しようとする動きもありました。
私たちも色々な人間関係で悩まされます。相手に勝って、自分の思いのままにしたいと考えることもあります。しかしいつも思いのままになるわけではありませんし、戦うことがよくない場合もあります。戦わなければならないときもあるでしょうけれども、助けられ、救い出される仕方は戦って勝つことだけではないのです。
敵となった相手から逃れるべき時もあります。相手との関係を変えたり、距離を取ったりすることが有効な場合もあります。もし可能であるならば、対話をしたり、交渉をしたりできるとよいでしょう。自分と相手だけでなく、他の人に協力してもらうこともあるでしょう。相手との和解に至ることができれば、それは素晴らしいことです。自分から動けなくても、敵がいなくなったり、敵意がなくなったりすることもあるかもしれません。
22章36節以下のダビデの言葉は非常に暴力的で、徹底的に敵を叩きのめし、屈服させようという執念を感じます。このような執念を神様の御心と考える必要はありませんし、敵への対応としてこれが正しいと考えるべきでもありません。ダビデ自身が他の選択を取っていますし、神様が敵の手から救い出す方法も場合に応じて変わるからです。方法は変わっても、守り、助け、救い出そうという主の御心は変わらないのです。
神の目的は変わらない
聖書の中の「敵」に関する言葉の中で最も有名なものは、山上の説教でイエス様が語られた「敵を愛しなさい」という教えです。同時にこれは聖書の中でも最も難しい教えの一つでもあるでしょう。この教えをダビデの歌と合わせて聞くと、今までとは少し違った受け止め方ができる気がします。
これまで「敵を愛する」ということは、敵に脅かされ、攻撃され、苦しめられているけれども、その相手を愛することだと思っていました。それは私には到底できないことです。一方、ダビデの歌は神様が敵から守り、救い出してくださることを証言しています。ということは、イエス様も私たちが敵から守られ、救い出されることが必要だと考えておられたことでしょう。
つまり、敵を愛しなさいという教えは、自分が守られなくてもいいということではありませんし、敵に脅かされ続けることを耐え忍ばなければならないということでもないわけです。誰かが敵に脅かされているときには、神様はその人を守り、助け、救い出そうとしておられるからです。
また「敵を愛する」ということが、脅かされている人だけに求められるわけでもないでしょう。むしろ誰かを脅かし、弱らせている人にこそ、人を守り、救い出そうとしておられる主の御心を知って、敵対することを止め、愛することを学ぶことが求められるでしょう。
ですから、このイエス様の教えから私たちが何をなすべきかということと共に、神様の目的は何であるのか、ということを考えることが大切でしょう。「敵を愛しなさい」という教えの理由を、イエス様はこのように言われました。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイによる福音書5章43~45節)
神様は敵によって脅かされている人も、敵となって迫害している人も、どちらにも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。それはつまり、神様はどちらの人の生命を守られ、力を取り戻し、この世で生きられる関係性を求めておられる、ということです。敵の手から救い出されることも、敵を愛しなさいと教えることも、神様の目的は同じなのです。
ダビデは「神の道は完全」だと宣言しており、イエス様も「天の父は完全であられる」とおっしゃいました。「完全」というのは、その振る舞いが首尾一貫していることです。神様は人を分け隔てなさらず、誰も滅びることを望まず、この世のすべてを愛し、すべての人が救われることを望んでおられます。そのような神様の目的も、そのための行動も、神様は首尾一貫しており、変わることがありません。
そのために神様は盾となり、逃れ場となり、私たちをも救い出してくださるでしょう。これからも神様の守りと助けが私たち一人ひとりに伴いますように祈ります。また神様の目的が果たされ、すべての人々が助けられ、救い出され、この世で生きていくことのできる新しい関係性が作られていくことを祈りたいと思います。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
木田献一監修『新共同訳 旧約聖書略解』日本キリスト教団出版局、2005年
J.L.メイズ『現代聖書註解 詩編』左近豊訳、日本基督教団出版局、2000年
旧約新約聖書大事典編集委員会『旧約新約聖書大事典』教文館、1989年
※wal_172619によるPixabayからの画像

