礼拝メッセージ(2026年10月18日)「共有しているのは何か」箴言10章1~12節

神との関係と隣人との関係
今日の箇所は「ソロモンの格言集」の始まりの部分です。この格言集は箴言の22章16節まで続いており、合計で375の格言が含まれています。太田教会で使っている新共同訳聖書の翻訳は、この箇所では原文からかなり意訳しているので、元のヘブライ語の意味に近い聖書協会共同訳の聖書も参考にしました。
今日の箇所では「正しさ」に関する言葉が目立ちます。
「不正に得た宝は役に立たず/正義は人を死から救い出す。」(10章2節)
「主は正しき者の魂を飢えさせず/悪しき者の欲望を退ける。」(10章3節)
「正しき者の頭には祝福があり/悪しき者の口は暴虐を隠し持つ。」(10章6節)
「正しき者を覚えることは祝福に/悪しき者の名は滅びに至る。」(10章7節)
「正しき者の口は命の泉/悪しき者の口は暴虐を隠し持つ。」(10章11節、聖書協会共同訳)
2節で「正義」と訳された言葉(新共同訳では「慈善」と訳された言葉)はヘブライ語の“ツェダカー”で、聖書の中で繰り返し語られるとても重要な言葉です。「正義」は正しさを実行することであり、人の歩むべき道であり、神様との正しい関係を表す言葉でもあります。
「正しき者」と訳された言葉(新共同訳では「主/神に従う人」と訳された言葉)はヘブライ語の“ツァッディーク”で、「正義」(ツェダカー)と関係している言葉です。「正しき者」とは、その人の属する共同体が期待するような意味での正しい行動をとることができる人のことです。
このような「正義」や「正しき者」の意味から、神様との関係の正しさは、隣人との関係の正しさと結びついていることがわかります。旧約聖書の律法も、箴言のような格言も、様々なことが書かれていますが、イエス様はそれらが基づく掟を教えてくださいました。
「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22章37~40節)
聖書は私たちに、神様との正しい関係と共に、隣人との正しい関係についても教えています。それは別々の事柄ではなくて、互いに結びついています。神様との正しい関係は、隣人への愛へと導きますし、共同体の中で正しい行動をすることは、神様が私たちに期待しておられることでもあるからです。
正しさの違い
正しい行動が求められることは、日常のどのような場面でもよくありますし、正しい行動をしていないことが問題になることもよくあります。一方で、正しい行動とは何か、ということについての考えが違うこともよく起こります。近年は多様化が進んでいますが、そのことでより一層、「正しさは何か」ということが問題になりやすくなっているでしょう。
先日、私の住んでいる町内会の方と話す機会がありました。そのときに、町内でも外国籍の方が増えて来て、治安が悪くなることが心配だ、という話が出ました。日本各地で外国籍の方は増えていますし、それが安心・安全に関わる問題だと主張する人たちはネット上にも政治家にもいますが、身近なところでもそんな話が出るのだなと驚きました。
ただ、私の住む町内で実際に治安が悪化したというわけではないようです。そこで挙げられた話題は、夜中に隣同士のアパートの窓を開けて話していた、という騒音トラブルのことでした。ニュースで聞くような犯罪は一部の出来事であって、実際に経験する問題というのは生活上のルールが守られないといった日常的なトラブルが多いのだろうと思います。
このようなトラブルも確かに問題なのですが、全く違う環境・違う文化の中で暮らし始めれば、誰もが経験する問題でもあるでしょう。日本人が外国で暮らすようになっても起こるでしょうし、国内でも違う地域に引っ越したら起こり得ます。それは教会の中でも起こりますし、結婚して夫婦生活を始めたならば、家庭内でも起こることです。
このようなトラブルは、必ずしも一方が正しくて、他方が間違っていることとは限りません。どちらもが「正しい」場合もあります。それは異なる状況・異なる環境にとっての「正しさ」をもっているからです。先ほどの例で考えると、日本の住宅地では夜中に大声で話していると問題になりますが、家と家の間隔がもっと広い地域だったり、みんなが顔見知りという地域だったりすると、全く問題にならないのかもしれません。
ですから問題が起きるのは、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているか、という場合だけではありません。それぞれが抱いている「正しさ」が違っている、というときにも問題が起きてしまうのです。その場合は、それぞれの「正しさ」を理解しあって、そのとき、その場にあった「正しさ」を共有することができていない、ということが問題となっているのでしょう。
「正しさ」というのは、いつ、どの場所でも、どんな人にも当てはまる、というものではありません。誰もが自分が考える「正しさ」を持っていますが、他の人も自分と同じ「正しさ」を持っているわけではありません。異なる環境、異なる文化の中では、私たちの「正しさ」が間違っていることも起こり得るのです。「正しさ」は私たちが歩んできた共同体の中で形作られてきたものです。それぞれの共同体にとっての善いことが違っていれば、それぞれの正しさの形も違うのです。
聖書にも、それ以外にも見いだせる正しさ
それぞれの環境や文化において、正しいとされることが違っているというのは、考えてみれば当然のことかもしれません。しかし私たちはキリスト者として、それとは異なる歴史を忘れるわけにはいきません。近代の西欧社会は自分たちだけが「正しさ」を知っていると考えました。そのことが帝国主義や植民地主義を正当化するものとして利用されてきました。
問題なのは、キリスト教会も近代社会と深く結びつき、福音宣教において自分たちだけが「正しさ」を持っていると思いこんでしまった、ということです。宣教師の多くは、福音を伝えることを西欧的な世界を広めることと同一視しました。各地の思想や文化、宗教は未発達なもので、排除されるべきものだと語ることで、西欧による侵略と支配を正当化してきました。
それが主の御心に適う宣教ではなかったことは、この世界の有様をみれば明らかです。どれほど多くの命が奪われ、どれほどの人々の尊厳が踏みにじられ、どれほどの共同体が破壊されてきたでしょうか。植民地主義は終わったことにされていますが、搾取と抑圧の構造は今も根本的には変わっていません。神様の祝福された世界の姿とは、これは全く異なるものです。
「不正に得た宝は役に立たず/正義は人を死から救い出す。」(10章2節)
一方的に「正しさ」を押し付け、その裏で多くの宝を奪うような暴虐は、神様のご計画のためには何の役にも立ちません。正しさは人を支配するものではなく、死から救い出すものであるはずなのです。生命の主である神様が教え示される正しさは、命を与え、生命を守るものであって、死をもたらすものではありません。
私たちは聖書を通して神様の「正しさ」を聞き取ろうとしています。聖書には神様の正義が溢れています。しかしそれはキリスト教の外に――特に西欧の外に――正しさがないということではありません。生命を守り、死から救い出す正しさ、人と人、人とあらゆる生き物とが共に生きるための正しさは、他のところにも見付け出すことはできるはずです。
「正しさ」を教え、それを求めるように招く聖書の御言葉は、私たちが「自分こそ正義だ」と思い上がるための言葉ではありません。正しさは、共に生きるための知恵です。生命を守り、困難を乗り越えていくための大切な言葉を、私たちは聖書から聞き、また御言葉を携えながら、他の場所で示された正しさも受け取っていくことができるのではないでしょうか。
破壊する言葉と生かす言葉
今、私たちにとって「正しさ」は何かと考えるときの難しさは、これまでの共同体が解体されてきており、「正しさ」が共有しづらくなったことにあるのかもしれません。生活のすべてが一つの共同体で完結していれば、その共同体の中での「正しさ」を考えればいいのですが、私たちはいくつかの共同体にそれぞれ属していますし、共同体から離れる人も増えています。
日本では戦後も家庭や地域社会、会社などが共同体となり、生活に密接に関わってきました。それぞれの共同体の中での役割があり、求められる「正しさ」がありました。しかし核家族化が進んだり、自治会の加入者が減ったり、雇用形態が変わったりする中で、共同体に属すること自体が当たり前のことではなくなってきました。
そうなると、共同体の中で「正しさ」が形作られづらくなります。共同体から求められることが少なくなった分、個人の自由は増えましたが、何が正しいことか、ということを社会の中で共有することも難しくなってきているのかもしれません。
最近では超富裕層やグローバル企業などが他者を省みずに自分たちの保身と利益だけを求める態度が露骨に現れています。最も力を持った者達が自分に都合の良いことばかりを求めるような傾向も、「正しさ」を共有することをより一層難しくさせている一因となっているでしょう。
「正しき者の口は命の泉/悪しき者の口は暴虐を隠し持つ。」(10章11節)
悪しき者は本心を隠しながら、自分の欲求を満たすために他者から奪い、虐げています。そのような悪しき者の言葉は現代でもネットやSNSを通して世界中に広まりますが、その言葉は共同体を破壊するもの、人と人とのつながりを断ち切ってしまう危険なものです。
今、必要とされているのは、正しき者の口が語る言葉です。それは命の泉となります。パレスチナのような乾燥地帯では共同体の中心に泉があり、そこに人も家畜もみんなが集まってきます。正しき者の言葉はそれと同じように、みんながそこに集まり、共有し、共同体の生活を導き、人々を生かすものとなります。
「憎しみはいさかいを引き起こし/愛は背きのすべてを覆い隠す。」(10章12節)
この世界に必要とされているのは、敵を作り、憎しみを掻き立て、争いを引き起こすような言葉ではありません。共同体を壊し、人をバラバラにして力を失わせることでもありません。トラブルを解決し、違いを理解し合い、共に生きていくための言葉、誰もがそこで命の水を飲み、生かされるような言葉が必要とされているのだと思います。
私は聖書の御言葉に――特にイエス様の言葉に――命の泉を感じます。イエス様に従う教会は、共に生きていくための言葉を聞き、伝え、そこで命を養う水を共にいただく群れとして作られました。暴虐が力を増す世の中にあって、命の泉を守り、伝え、それを分かち合って歩んでまいりましょう。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
木田献一監修『新共同訳 旧約聖書略解』日本キリスト教団出版局、2005年
旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書Ⅳ』岩波書店、2005年

