礼拝メッセージ(2026年9月13日)「人の手にはなく、神の手にあること」サムエル記下16章5~14節

逃亡したダビデへの呪いの言葉

先週の箇所では、ウリヤとバト・シェバ夫妻に対して犯したダビデの過ちを見ました。ダビデは死の罰を免れましたが、預言者ナタンはダビデに「剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう」と告げました(12章10節)。その預言の通り、ダビデは息子たちの過ちや殺人、反逆に悩まされることになります。

ダビデの息子アムノンは、異母兄妹であった妹のタマルを強姦しました。タマルの兄であったアブサロムはアムノンを激しく憎み、この強姦事件の二年後にアムノンを殺害しました。その後、母方の祖父のもとに逃れていたアブサロムでしたが、ダビデの側近であるヨアブが仲を取り持ち、殺害事件から五年後に父ダビデと和解をしました。

「王はアブサロムを呼び、アブサロムは王の前に出て、ひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。」(14章33節)

ところがこの直後から、クーデターを企てるアブサロムの様子が伝えられています。アブサロムとダビデの和解は見せかけのものだったのか、アブサロムの本心はなんだったのか、色々と想像できますが、本当のところはわかりません。はっきりしているのは、アブサロムがイスラエルの人々の心をつかみ、クーデターを引き起こした、ということです。

アブサロムが反逆を起こしたことにダビデが気づいたときには、既にアブサロムの軍勢がエルサレムに迫っていました。ダビデは家臣たちと共にすぐさまエルサレムから逃げ出します。圧倒的な人気を誇り、国の英雄と見られていたダビデでしたが、王座を追われ、先の見えない逃亡生活へとなだれ込んで行きました。

今日の箇所は、この逃亡生活が始まったときに起こった出来事を伝えています。エルサレムから逃げ出したダビデ一行は山道を下って、谷底を流れるヨルダン川を渡ろうとしていました。その途上にあるバフリムというところでシムイという男がやって来ました。彼はイスラエルの最初の王であったサウルの親戚でした。

シムイはダビデに向かって呪いの言葉をかけながら、石を投げたり、塵を浴びせかけたりしました。これに対してダビデの家臣であるアビシャイは怒り、「あの男の首を切り落としてやりましょう」とダビデに進言しました。しかしダビデはアビシャイを制し、シムイにはやりたいようにさせていました。

命を狙う敵に追われながら、険しい山道を下っていくだけでも大変なことです。それに加えて呪いの言葉を浴びせかけられ、石を投げられ、塵を浴びせられ続けたので、ダビデ一行は疲れ果ててしまいました。

それは主が行ったことなのか

この出来事の中で、シムイとダビデがそれぞれに、「主が行ったこと・行うこと」について語っていますが、それは本当に主が行ったこと・行うことなのでしょうか。シムイはダビデが息子に王位を奪われたことを、主がなされた報復だと語りました。それはダビデが犯した罪への報復なのだ、というのです。

シムイが指摘したダビデの罪とは、ダビデが「サウル家のすべての血を流して王位を奪った」(8節)ということでした。サウルの死後、ダビデ家とサウル家の間で戦いが起こり、最終的にはダビデがサウルに継ぐイスラエル全土の王となります。サウルの親族だったシムイは、ダビデがサウル家から王位を奪ったのだと考え、ダビデを恨んでいたのかもしれません。

シムイからすると、ダビデが王位を奪われたのは、ダビデの自業自得だと思えたのでしょう。しかしダビデが「サウル家のすべての血を流した」というのは誇張です。ダビデはサウルの命を奪いませんでしたし、王となってからもサウルの一族を根絶やしにするようなことはしていません。だからこそシムイもまだ生きていたのです。

シムイの言葉には、彼の恨みが強く反映しているように感じます。ダビデの没落というのはシムイが強く望んだことだったからこそ、それは主が行われたことだとシムイは考えたのでしょう。しかしそれは、シムイが主からの啓示を受けたということではなく、ダビデを裁き、貶めたいというシムイの思いから出た言葉だったのかもしれません。

自分が望んでいた事態が起こった時に、それを主が行ったことだとして正当化することは珍しいことではありません。神の名を騙ることは何度も繰り返されてきたことです。個人的な事柄だけでなく、差別や略奪、戦争や虐殺でさえも、人間は神の名を騙って正当化してきました。それが自分の望んでいたことだったからです。

ですから、「それは主が行ったことだ」と言われても、それをいつも鵜呑みにするべきではありません。力ある者がそのように語ったとしても、本当にそれは主が行ったことなのか、主が望まれたことなのか、と立ち止まって考えることが必要です。同時に私たちが「それは主が行ったことだ」と思う出来事も、違う立場の人からどのように見えるか、ということにも気をつけたいと思います。

罪を省みる機会

一方のダビデは、シムイの呪いは主が命じたことだと語っています。

「主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろう」(10節)
「勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。」(11節)

しかしこれもダビデが文字通り、シムイの呪いの言動が主の御命令によるものだと考えていたわけではなさそうです。この後、ダビデが王位に復帰するときに、彼はシムイの罪を問いませんでした。その代わり、彼は後継者である息子ソロモンに、シムイの扱いについてこのような遺言を残しています。

「あなたは彼の罪を不問に付してはならない。あなたは知恵ある者であり、彼に何をなすべきか分かっているからである。あの白髪を血に染めて陰府に送り込まなければならない。」(列王記上2章9節)

この遺言を受けたソロモンはシムイに外出禁止令を出し、それを破ったシムイを処刑しました。もしダビデがシムイの呪いの言動を主の御命令だと考え続けていたならば、そこには何の罪もないわけですから、シムイを殺させる遺言は残さなかったはずです。

そのように考えると、このときのダビデの発言は、自分を呪うシムイの言動に主の意志が反映している可能性を考慮していた、ということなのかもしれません。ダビデは拭い去ることのできない過ちを犯しました。実の息子に命を狙われ、王位を奪われようとしているときに、そのことが頭によぎったとしても不思議ではありません。シムイの言葉をそのまま受け止めたわけではなくても、この出来事を通して自分の過ちを省み、主の御心を尋ねたのかもしれません。そのような姿勢は大切なことでしょう。

神の手には希望がある

さらに続けてダビデは主がこれから行ってくださるかもしれないことも語っています。

「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」(12節)

苦しいことを経験したら、その後には幸せなことが待っていると決まっているわけではありません。そのことはダビデもわかっていて、呪いの代わりに幸いを返してくださる「かもしれない」、と言っています。幸いが戻って来ることは決まっていない。ただ同時に、苦しみが永遠に続くとも決まっていない。ダビデはその両方の可能性があることを知っていました。

両方の可能性があるというのは当たり前のことのようですが、なかなかそのように思えないこともあるのではないでしょうか。苦しみの中にある時には、そのことばかりを考えて、ずっと苦しみが続くのではないかと考えてしまう。特に自分の手に負えない事態になったときには、良いことが起こる未来を想像しづらくなってしまうことがあるかもしれません。

しかしダビデは命を狙われるような苦難の中で、シムイの呪いに耐え忍びながら、この苦しみが永遠に続くとは限らないことを忘れてはいませんでした。状況を反転させるのは、ダビデ自身の手によるものではなく、主が起こされることです。自分の手の中に幸いはなくても、神の手の中には幸いがあり、それを再び与えてくださる可能性を彼は心に留めていました。

神様に対するダビデの姿勢は、現代でもムスリムの人たちが共有しているものかもしれません。ムスリムの人たちは「インシャアッラー」という言葉を日常的に使っているそうです。「インシャアッラー」とは「神の御心ならば」という意味です。たとえば「試験に受かるといいね」とか、「また会いましょう」と言われた時に、「インシャアッラー(神の御心ならば)」と答えるのだそうです。

「インシャアッラー」と答えたとしても、本人はそうなってほしいと願っていますし、そうなるために努力を惜しみません。ダビデも自分の身を守るために行動を起こし、また逆境を覆すために策略を練っています。自分にできることを考え、手を尽くすことは、ダビデもムスリムの人々も行っているわけです。

しかしどれだけ頑張っても、自分の願い通りにならないことはあります。だから「インシャアッラー(神の御心ならば)」と言うのでしょう。人の手にはすべてを納めることはできない。でも、人の手にはないことも、神の手の中にはあると信じているからです。

内藤正典さんという方は、病気になったときのムスリムの考え方をこのように語っています。

「神さまはね、完全な超越者だから、良いことも、悪いこともできる。だから、たまたま今は病気になって、悪いことになった。でも、ずっとそんな悪いことが続くはずはない。良いことも、必ず起きるはずだ」(内藤正典『45分でわかる! イスラムの真実と世界平和』)

このような考え方は、ダビデの発言と通じるものがあります。

「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」(12節)

これらの考え方は、自己責任とか、因果応報といった考え方とは異なります。悪い出来事をすべて自分の責任・自分が原因とは考えないし、自分だけでどうにかしないといけないとも考えない。私たちの考えや想像を超えて、神の手が働かれることがある。だから悲観的に見える事態の中でも、良いこと・幸いが起こる可能性に希望を持ち続けられるのでしょう。

ダビデも一人の人間ですから、過ちも犯しますし、権力を用いることはきれいごとではすまないこともあるでしょう。ですからダビデを理想化することはできませんし、その必要はありません。それでも苦難の中でダビデが見せた主に向かう姿勢――自分の過ちを省みることと、主に希望を持ち続けること――には、私たちも学びたいと思います。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

木田献一監修『新共同訳 旧約聖書略解』日本キリスト教団出版局、2005年

内藤正典『45分でわかる! イスラムの真実と世界平和。 イスラムへの誤解が、世界を停滞させている。』マガジンハウス、2009年

Ashiq RaazzによるPixabayからの画像