礼拝メッセージ(2026年9月6日)「悔い改めへと導かれる」サムエル記下12章1~15節前半

考えるための物語

ダビデは旧約聖書の中で、アブラハムやモーセと並ぶ最も重要な人物の一人です。詩編の多くもダビデの名によって書かれていますし、救い主もダビデの家系から誕生すると預言されています。イスラエル王国の二人目の王として国に繁栄と平和をもたらした理想的な王というイメージがダビデにはあります。

そんなダビデが犯した唯一の過ちがサムエル記下11章に記された出来事です。ただ今回、改めてこの箇所を読んでみて、これは一時の過ちということではなかったと考えるようになりました。王として人々の人気を得、絶大な権力を握り、政略と戦争を繰り返していく中で変わっていったダビデが、罪に罪を重ねた出来事だった、と感じたからです。

ここで大事なことは、ダビデが良い人だったのか、悪い人だったのか、ということではありません。過ちを犯したときにはどうすればいいのか、神様が人の罪に対してどのように向き合われるのか、ということを考えるための出来事として、この箇所を読みたいと思います。

自己保身のためのダビデの策略

11章は、その前の10章から続く戦いが背景になっています。ダビデはアラム軍を打ち破りました。乾期になると、ダビデは司令官ヨアブを筆頭に全軍を送り出しましたが、ダビデはエルサレムに留まりました。これまで自ら軍を率いて戦場に立ち、いくつもの戦いに勝利してきたダビデでしたが、このときは部下に任せて王宮に留まっていました。

そんなある日、昼寝から起きたダビデは王宮の屋上から一人の女性の姿に目を留めます。それは身を清めていたバト・シェバでした。ダビデは彼女が自分の部下である「ヘト人ウリヤの妻」であることを確認した上で彼女を呼び出し、床を共にしました。バト・シェバはダビデの子を身ごもりました。ちなみにヘト人とはパレスチナの先住民です。

バト・シェバはダビデに使いを送り、ダビデの子を宿したことを知らせました。このときがダビデにとって悔い改めるべき最初の機会でした。王としての権力を利用して、自分の部下であり、イスラエルに支配された部族出身のヘト人ウリヤの妻を妊娠させてしまった。その過ちを告白し、悔い改めたならば、さらなる犠牲や被害が生じることはなかったかもしれません。

ところがダビデは自己保身のために隠ぺい工作を図りました。ヨアブに命じてウリヤを戦場から呼び戻し、彼をバト・シェバが待つ自宅へと帰らせようとしたのです。そうすることで、バト・シェバが身ごもったダビデの子どもがウリヤの子であるかのように見せかけようとしました。この策略は、バト・シェバにもウリヤを偽り、真実を隠し続けさせることが前提となっていたでしょう。

ところがウリヤは自宅には帰りませんでした。その理由を彼はこのように語りました。

「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」(サムエル記下11章11節)

神様も仲間も戦場にいるのに、自分だけが妻の下へ帰ることはできない、ということです。その一方で、神の箱も自分の部下たちも戦場にいるときに、ダビデは部下の妻と床を共にしていました。神様にも仲間にも誠実なウリヤの言葉を受け止め、主に立ち返ることができたなら、ダビデはここで自らの過ちを悔い改めることができたかもしれません。

しかしダビデはさらなる隠ぺい工作をはかります。今度はウリヤを食事に呼び出し、彼に酒を飲ませて酔っ払わせました。酔うことで冷静さを失わせ、自制が弱まり、バト・シェバのもとへと帰っていくだろうと考えたのです。ところがそれでもウリヤは自宅には帰りませんでした。

すると業を煮やしたダビデは、ついに恐ろしい計画を実行します。ダビデはウリヤを戦場に送り返しました。ウリヤに持たせたヨアブへの書簡には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」、と書かれていました(11章15節)。

ヨアブはダビデの計画を実行したので、ウリヤは戦死しました。この計画のために、ウリヤだけでなく、ダビデの他の家臣と兵士からも戦死者が出ました。ダビデは自己保身のために何人もの部下を無益に死なせたわけです。

ウリヤの死の喪が明けてから、ダビデはバト・シェバを自分の妻として、バト・シェバはダビデの子を産みました。ダビデの隠ぺい工作は成功したように見えました。しかし、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」、と聖書は告げています(11章27節)。

反省すべき出来事

主の御心に背いていたダビデに対して、神様は預言者ナタンを遣わします。ナタンはダビデに向けて二人の男の話をしました。そのうち一人は豊かで、一人は貧しい男でした。ある日、豊かな男は自分の客をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しんで、貧しい男の唯一の小羊を取り上げて、自分の客に振舞った、という話でした。

この話を聞いてダビデは激しく怒り、「そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の値を払うべきだ」、とまくし立てます(12章5~6節)。力ある者の不正義に対する怒りは、民を裁く王に必要な資質であり、正義と公平を求める神様に従うことでもありました。

しかしダビデはこの二人の男の話を自分とウリヤに重ねることはしませんでした。自分がおこなったことを棚に上げてしまっているダビデに対して、ナタンははっきりと言いました。「その男はあなただ」、と(12章7節)。それはダビデが富める男に宣告した罰が、ダビデ自身にも向けられるという宣言でもありました。

神様はこれまでダビデを救い出し、様々な恵みを与え、大きな権力を委ねられました。有り余るほどの恵みを与えられ、なお不足があれば加えて与えられるだろう、とさえ言われています。それなのにダビデは部下を剣にかけ、その妻を奪ってしまった。「ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ」、という宣告は、ダビデの過ちの深刻さを明確に告げています(12章9節)。

ナタンの宣告を受けて、ダビデは自らの過ちを認めました。「わたしは主に罪を犯した」、と(12章13節)。過ちを咎められても、それを受け入れることは難しいものです。特に王のように大きな力を持った人にはなお難しいことなのかもしれません。ですから、自らの過ちを認め、罪を告白するというダビデの姿勢は肯定的に受け止められるものでしょう。

しかしそうであっても、この出来事はハッピーエンドとはなりません。ダビデは死を免れますが、バト・シェバが産んだダビデの子は間もなく死んでしまいます。ダビデ家の中でも問題や争いが起こり、命が奪われる事態も起こります。過ちを認めたとしても、そのために生じた犠牲や被害が無くなるわけではありません。

このときのダビデは最良の選択をしたわけではありません。むしろ悔い改める機会を逃し続けてきました。バト・シェバが子を宿したときや、ウリヤの誠実さを目の当たりにしたときなどに悔い改めていれば、無用な犠牲を増やさず、罪を重ねずに済んだことでしょう。過ちを犯したことも、悔い改めが遅れたことも、反省すべき出来事です。

悔い改めへと導かれる神

人は誰でも過ちを犯すものです。その過ちは自分の傷となるだけでなく、ときに他の誰かを傷つけ、何かを失ってしまうものです。その過ちを認め、悔い改めることは、ダビデだけでなく私たちにとっても難しい場合があります。それでも罪を取り繕うために罪を重ねるのではなく、悔い改める方が被害を拡大させずに済む場合も多いのではないでしょうか。

この物語は王であったダビデの過ちと悔い改めを伝えています。その意味では、私たち個人の過ちや悔い改めとは影響の大きさが異なります。権力が大きいほど、その過ちの被害や犠牲は多くなりますし、悔い改め、方向を変えることの重要さも増してきます。

先日、ネパールで大規模な土石流が発生し、多くの方の命が奪われました。これを受けてネパールのカナル外相は、気候変動のためにネパールが「大きな代償を払っている」として、中国、アメリカ、インドといった温室効果ガスの主要排出国に補償を求めました。

気候変動が世界的な脅威となることは、1980年代には各国政府に知られていました。2015年のパリ協定では、気温上昇を1.5℃に抑えるという目標が立てられましたが、1.5℃を越えてしまうことは既に避けられない事態になってしまいました。

気候変動への対策が遅れた原因には、気候変動懐疑論を意図的に広めたり、対策を遅らせるような働きかけを行ったりする各国の政党やメディアの存在もあります。環境を犠牲にして多くの利益を得続けてきた化石燃料産業や化学・農業関連の大企業などが、それらの政党やメディアを支援し、また誘導してきました。

気候変動は大半の人々にとって――またほとんどの生物にとって――大きな脅威となります。この脅威が明らかになったときに、私たち個人ももちろんですが、特に巨大な力をもった人々が悔い改め、進む方向を変えていれば、これほどの被害や犠牲を生じさせることはなかったでしょう。

神様は公平と正義を求めます。ダビデも応答してすべての民のために公平と正義を行っていたことがありました。そのダビデが過ちを犯したとき、神様はダビデにナタンを送り、悔い改めを求めました。それはダビデに罰を与えるためにではなく、ダビデの罪による被害や犠牲と留めるためだったと思うのです。

神様は悔い改めへと導かれる方です。私たちも過ちを犯したときには悔い改めることのできる者になりたいと思います。しかしそれだけでなく、大きな力を持った者たちが深刻な過ちを犯しているときには、神様に尋ねつつ、悔い改め、過ちを繰り返さないように求めることも必要な働きなのではないでしょうか。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

木田献一監修『新共同訳 旧約聖書略解』日本キリスト教団出版局、2005年

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