礼拝メッセージ(2026年10月25日)「語るべきときに、語るべき言葉を」箴言25章9~22節

語るべきときに、語るべき言葉を語る難しさ

太田教会も加盟している「日本バプテスト連盟」では、毎年定期総会を開催しています。以前は伊豆半島の天城山荘を会場としていましたが、今ではオンラインが基本の開催方式に代わっています。日程も3日間から2日間に短縮したので、その分、総会で取り扱う議案についてあらかじめ説明し、質問や意見を受ける時間を設けています。

ちょうど昨日、2回目の「提出予定議案説明会」が行われました。来年度の活動計画・予算案の他、2027年度から2030年度までの中期計画などについて話されました。中期計画としては、「教会が互いに知り合い協力し合うための道具と機会を提供する」ことや、「教会や教役者が直面する諸々の課題に対する協働(支援)」などが挙げられています。

この中期計画の主題と主題聖句も選ばれました。

主題 「静かにささやく声を聞く――祈りでつなぐ協力伝道――」
主題聖句「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19章12節b)

主題聖句とされた箇所は、預言者エリヤが命を狙われ、ホレブ山へ逃げ込み、洞窟にしゃがみこんだ時に聞こえた声のことです。そのとき、激しい風や地震や火が起こりましたが、それらの大きな音の中に主はおられませんでした。主の声はその後に、静かにささやく声として聞こえてきました。

バプテスト教会は民主的な教会運営を目指してきました。連盟でも自由に意見をぶつけ合う総会の場がバプテストらしさとして受け止められてきました。しかしそこで発せられた声は強い人の大きな声が多かったことも現実です。小さな教会や少数者の声を聞こうとせず、連盟の施策に十分に反映させられなかった、という反省がここにはあります。

私はこれまでの総会の中で何度か発言したことがありますが、人前で話すことは苦手なので、とても緊張してしまいます。考えていることがあっても、「どのように話したらいいだろうか」と悩み、やっと発言した後も、「今の話し方でよかっただろうか、うまく伝わらなかったのではないか」とまた悩んでしまいがちです。悩みながら発言の機会を逃したときも、後から「これは言っておいた方がよかったかもしれない」と思うこともあります。

総会のような場だけでなく、日常の様々な場面でも、どのように話したらいいか、今語るべきか、言っておいた方がよかったか、と考えることはよくあります。思った通りに伝わったり、必要な言葉を語れたりすることもありますが、語るべきときに、語るべき言葉を語る、というのは、とても難しいことだと思っています。

主に立ち返らせるための格言集

箴言25章から29章は、ソロモンの第二の格言集と呼ばれている箇所です。この箇所の冒頭である25章1節にはこのようにあります。

「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」(25章1節)

ヒゼキヤ王は紀元前715年から686年まで南王国ユダを統治した王です。ソロモン王よりもずっと後の時代の王ですが、彼が王のもとで働く書記たちに格言集をまとめさせました。

ヒゼキヤ王のことは列王記下18~20章に書かれています。歴代の王の中には「主の目に悪とされることを行った」と言われる者も少なくない中で、ヒゼキヤは主に忠実な王として高く評価されています。

「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。」(列王記下18章5~6節)

ヒゼキヤが統治していたころには北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされていました。アッシリアはさらに南下し、ユダ王国にも攻め入ろうとしていました。そのような時代状況の中で、ヒゼキヤは主を畏れ、主に依り頼む信仰を取り戻そうと考え、国内に置かれていた偶像を切り倒しました。

ヒゼキヤがソロモンの知恵と呼ばれていた格言を集めさせたのも、このような宗教改革の一環でした。彼はイスラエル王国が滅亡したことも、ユダ王国が脅威に晒されていることも、単純に国家の力不足が原因だとは考えませんでした。根本的な原因は、主によって創られた国が、主への信仰を失っていたことにあったと考えたのです。

そのため、ヒゼキヤが集めさせたこの格言集には王や官僚、裁判官など指導者層に向けて語られた格言も含まれています。王を筆頭とした指導者層が信仰を失い、道を誤り、国に危機をもたらしてしまったので、まずは指導者たちが主に立ち返り、主を信頼し、主に従うことが必要だったからです。

それでもここで語られている格言は、指導者層だけに向けたものではありません。この中には共同体全体をより良いものとするために、健全な人間関係を作り、維持するための知恵がふくまれています。それは文字通り実行できるマニュアルのようなものではありませんが、大切なことは何かを問い直し、人間関係を見つめ直し、より良い選択について考えるための問いとすることはできるでしょう。

宝物になる言葉

今日の箇所にもいくつかの事柄が挙げられていますが、その中のいくつかに注目したいと思います。

「時宜にかなって語られる言葉は/銀細工に付けられた金のりんご。
聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは/金の輪、純金の飾り。」(11~12節)

「金のりんご」は食べ物ではなくて、装飾品のようなもののことでしょう。ちょうどよい時に語られた言葉は、高価な銀細工をさらに高める金のりんごのように貴重なものです。このような格言があったということは、時にかなって語ることの難しさがその頃からあったからでしょう。同時に語られた人にとって宝物のようになる言葉もあったのでしょう。

また、語ることだけでなく、聞くことの大切さも強調されています。人の話を聞くことも簡単なことではありませんが、特にそれが自分にとって耳の痛いこと、反省が必要となるようなことであると、それを聞いて受け入れることは難しくなります。せっかくの指摘や注意も、耳を閉ざされたら何の意味もありません。聞くべきことを聞き分けられるならば、受け取りづらい懲らしめの言葉も貴重なものになります。

語ることも、聞くことも、自分と相手の関係やそのときの状況、語られる内容などによって、何が良いのかということは変わります。だから難しいですし、だからうまくいかないことがあるのも当然です。でも、それがうまくいったとき――相手に届く言葉になった時、相手から言葉を受け取れた時――には、それはとても大切なものになることを覚えておきたいと思います。

神様からの御言葉も、いつも私たちが受け取れるわけではありません。でも不思議と時にかなって与えられる御言葉があります。また厳しい懲らしめの言葉も受け取ることができる時もあります。そのような時には、私たちは神様の御言葉を自分に送られた宝物のように感じることができるのではないでしょうか。

繰り返し、穏やかに

「忍耐強く対すれば隊長も誘いに応じる。穏やかに語る舌は骨をも砕く。」(15節)

これは指導的な立場の人に何かを要求する場合のことです。「忍耐強く対すれば」と訳されているところは、「怒りを遅くすれば」という意味の言葉です。願い求めることが切実であればあるほど、それを聞いてもらえない、理解してもらえないというときには怒りがわいてきて、その怒りをぶつけてしまうことがあるかもしれません。

けれども怒りのような強い感情に飲み込まれると、思っていたような形で自分の思いを伝えることが難しくなります。最近は“カスハラ”(カスタマーハラスメント)が問題として取り上げられるようになりましたが、すぐに怒ってばかりでは、人間関係を維持することも難しくなってしまいます。

だから怒ることは遅らせて、忍耐強く何度も伝えるようにと教えているのです。繰り返し求めることについては、イエス様も語っておられました。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書7章7節)

ここで使われているギリシャ語は、繰り返し、継続的に「求め続け、探し続け、門をたたきつづけなさい」という意味を含んでいます。一度で伝わらなければ何度も繰り返して伝えていけば、伝わるときがあるでしょう。ただ、伝えることが頻繁でありすぎてもよくありませんが。

また伝え方は、穏やかに、柔らかく、とも言われています。怒りに任せた強い言葉の方が固いガードも砕けそうですが、むしろ穏やかに語ることで固い骨をも砕くように、相手の心に届いていくのだ、というのです。これも難しいことではありますが、大切なこととして心に留めたいと思います。

必要なものは分かち合う

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。
こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(21~22節)

「あなたを憎む者」とは私にとっての敵ということになりますが、これも敵を愛しなさいというイエス様の教えを思い起こさせます。敵を愛することは、旧約聖書の中でも教えられてきたことでした。さらに遡ると、出エジプト記の律法の中にも敵のための行動が義務付けられている箇所がありました。

「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。」(出エジプト記23章4~5節)

これらの箇所を見ると、憎む者や敵というのは、争っている最中の相手ということではなさそうです。パンを与えたり、水を飲ませたり、牛やろばを連れて行ったり、ろばを助け起こしたりすることができる状況や関係性が前提とされているようです。

それえも憎む者や敵と言われるのですから、良い関係ではないことは確かでしょう。そうであっても、相手が生きるために必要なものを自分が与えることができるなら、それを与えなければならない、という教えなのだと考えます。「敵を愛する」というと、ものすごく特別な行動を思い浮かべますが、必要なものを分かち合うことの大切さを教えられているのでしょう。

「炭火を頭に積む」ことの意味については様々な解釈があり、はっきりしたことはわかりません。いずれにしても、神様が私たちに期待しておられることは、人間関係をより良く保ちながら、共に生きていくことなのでしょう。いつも完全にはできませんが、そのような歩みの先に主の報いが備えられているのです。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

木田献一監修『新共同訳 旧約聖書略解』日本キリスト教団出版局、2005年

First Part of Hezekiah’s Collection Mostly Synonymous (Proverbs 25:1-27),https://bible.ucg.org/bible-commentary/Proverbs/Hezekiah’s-Solomonic-collection/,2026/10/23

みことばぱくぱく,「箴言25章」,”聖書が読みたくなる学び,https://ameblo.jp/akktkn/entry-12827621844.html,2026/10/23

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