礼拝メッセージ(2026年11月1日)「流れのほとりに植えられた木」詩編1編1~6節

悪しき者と幸いな者
詩編は全体で150編まで続くとても長い書物ですが、1編は詩編全体の序章という役割をもっています。ここでは「幸いな者」とはどのような人であるか、「悪しき者」とはどのような人であるかを語っています。「幸いな者」と「悪しき者」とを並べて語ることで、滅びに至る道を遠ざけ、祝福された道へと導く御言葉として詩編を読むように招いています。
新共同訳聖書で「神に逆らう者」と訳された言葉は、「悪しき者」という意味の言葉です。悪しき者は神様に逆らう策略によって歩み、主に背く罪人の道に立ち、神様の支配を嘲る者の隣に座ります。「歩み、立ち、座る」という動作を続けて語ることで、悪しき者へと進んでいくあり様を描いているようです。
一方、幸いな者は神様に従う正しき者です。正しき者は神様を信頼し、神様に従おうとします。それと反対に、悪しき者は従うことができなかったというよりも、従う意志がなかったといえます。神を愛し、隣人を自分のように愛しなさいという神様の教えに背き、他者を犠牲にしながら自分の力と富を求める者が「悪しき者」です。
幸いな者は「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」でもあります(2節)。「愛する」と訳された言葉は「喜びとする」とも訳されるので、幸いな者は主の教えを聞くことを自らが望んでいます。「口ずさむ」と訳された言葉は「思い巡らす」とも訳されるので、幸いな者は主の教えを何度も思い巡らし、自分に語られた言葉の意味を考えるのです。
主の教えを喜び、主の教えを思い巡らして歩むことの中に、主が幸いを与えてくださいます。完全に理解したり、いつも覚えていたりすることができなくても、それを喜び、心に留めようとする私たちに、主は伴ってくださいます。だから詩編は主を信頼し、主に従うことへと私たちを招きます。それは私たちが幸いな者とされるためです。
「幸いな者」と共に「悪しき者」についても語るのは、現実において悪しき者の力が無視できないからかもしれません。信頼も服従も意に介さず、他者を踏みにじり、他者からむさぼる者たちがこの世を支配しているように見えるのは、今も昔も変わらないことなのかもしれません。そのような現実のあり様が信仰を揺さぶることもあるでしょう。
詩編には様々な立場や経験の中で歌われた詩があります。順風のときばかりでなく、逆境の中で歌われた詩もたくさんあります。それらの詩が繰り返し証言することが、詩編1編に要約されています。主に信頼し、従うならば幸いを得る、と。主の教えに背き、悪しき者の道を歩むならば滅びに至る、と。このことは、様々な危機に直面している今の世界の中でこそ問い直されるべきことだと思います。
流れのほとりに植えられた木
3節では「幸いな者」とはこのよう者だと言われています。
「その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編3節)
ここにある「流れのほとりに植えられた木」という箇所を読んだとき、私には一つの光景が浮かんできました。それはアフガニスタンの枯れ果てた大地に用水路が引かれ、緑に覆われた大地に変えられた、という光景です。それは30年以上に渡って現地で活動を続けられた中村哲さんが伝えてくださったものです。
中村哲さんは医師であり、パキスタンの国境の町ペシャワールを拠点とした医療活動を行っていました。初めは専門医のいなかったハンセン病の治療を担当しておられました。そのころ、国境の向こう側であるアフガニスタンでは凄惨な戦争が起こっており、大量の難民が発生していました。中村さんたちは難民キャンプでも医療活動を始め、感染症が多発している山の中の寒村に診療所を開設していきました。
しかし2000年に大旱魃がアフガニスタンを襲いました。人口の半分以上である約1200万人が被害を受け、400万人が飢餓の線上に置かれ、100万人が餓死する危機に陥りました。アフガニスタンは完全な食料自給ができていた農業国家でしたが、食糧生産は半分以下に落ち込み、農地は砂漠化し、100万人以上が村を捨てて難民となってしまいました。
中村さんたちの診療所にも旱魃の犠牲となった病人が多く運び込まれました。その多くは幼児でしたが、ほとんどは十分な食糧や清潔な水があれば防げるはずの病気でした。飢えや渇きを薬で治すことはできません。そこで中村さんは白衣を脱ぎ、作業服に着替えて、医療活動から飲料水を得るための井戸掘りへと活動を一変させました。
中村さんたちが現地の人たちと共に掘った井戸は2006年までに約1600カ所にもなりました。井戸だけでなく、以前使われていた灌漑用水の復旧にも手をかけました。多くの人がその水に助けられました。それでも飲料水だけでは農業はできず、出稼ぎ難民は減らず、仕事を求めて傭兵となる人も少なくありませんでした。さらには地下水もだんだんと枯渇し始めていました。
そこで2002年からは用水路を掘る「緑の大地計画」の準備を始めました。長い年月をかけ、日本からの支援と、現地の人たちの協力によって、用水路が完成しました。用水路に水が流れ始めると、逃れていた人たちが帰って来て、家が建ち、緑の畑が姿を現しました。用水路の周りには水路を補強する柳の木が植えられました。水路に沿って植えられた青々と茂るこの柳が、私には「流れのほとりに植えられた木」に見えました。
「幸いな者」への招き
中村哲さんは、緑の大地となった様子を見ながらこのように述べています。
「小高い丘から望むと、沙漠に囲まれる緑の人里は、壮大な天・地・人の構図だ。厚い 砂防林の森が、沙漠と人里とを、くっきりと分けている。過酷な自然の中で、人間は身を寄せ合って生きている。生殺与奪の権を持つ大自然を前に、つつましく生命を営む様子に、改めて「天、共に在り」という実感と、安堵を覚えるのである。自然は喋らないが、人を欺かない。高く仰ぐ天が、常にあることを実感させる。絶望的な人の世とは無関係に、与えられた豊かな恵みが在ることを知らせる。」(『天、共に在り』208頁)
「天、共に在り」というのは、中村さんなりの「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という御言葉の表現です。過酷な環境の中で、人と人とが身を寄せ合い、共に生きている。その中に神様が共におられるということを実感する。人の世は絶望的な状況となることもあるけれども、それとは無関係に神様の豊かな恵みがあることを、この光景が知らせているからです。
詩編が告げる「幸いな者」というのは、このような人たちのことかもしれません。苦しむ人たちのために未知の領域に跳び込んだ中村さんも、共に活動した現地スタッフやアフガニスタンの人たちも、その活動を覚えて支援した日本の人たちも、共に「幸いな者」となっていたのではないでしょうか。
幸いな者とは、自分の幸せだけを望み、求める人のことではありません。幸いは自分で手にするものではなく、与えたり、与えられたりするものだからです。厳しい環境の中でも命を守ろうとする人、助け合って生きていこうとする人、喜びを分かち合おうとする人、そのような人たちを神様は「幸いな者」と呼び、祝福してくださるのでしょう。
そして「幸いな者」と呼ばれる人たちは、この世が悪しき者の世界ではないことを告げる存在でもあります。確かにこの世には命を奪い、この世を砂漠に代えてしまうような悪しき者もいます。けれどもそれに抵抗し、命を守り、祝福を受け継ごうとする人たちもいます。神様の祝福は、この「幸いな者」たちを通してこの世に現わされています。
「暴力と虚偽で目先の利を守る時代は自滅しようとしている」と中村さんは語っています。アフガニスタンに向けられたロシアやアメリカなどの暴力は多くの命を奪いました。経済成長がすべてを解決するという虚偽によって引き起こされた地球温暖化はアフガニスタンの人々の生活の基盤を破壊しました。悪しき者の道が滅びに向かっていることは、近年になってますます露になっているように感じます。
「悪しき者」の存在は宣伝されやすく、注目を浴びやすいものです。しかし詩編は「幸いな者」に目を向けるように呼びかけ、私たちも「幸いな者」となるように招いています。主の教えを愛し、それを思い巡らして歩むように。神様を愛し、隣人を自分のように愛するように。滅びの道ではなく、祝福の道を共に歩むように、私たちも招かれているのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
J.L.メイズ『現代聖書註解 詩編』左近豊訳、日本基督教団出版局、2000年
中村哲『天、共に在り――アフガニスタン三十年の闘い』NHK出版、2013年
※Лилия ВойтенкоによるPixabayからの画像

