礼拝メッセージ(2026年7月12日)「聞いて従う」サムエル記上3章1~18節

サムエルへの主の呼びかけ
先週は神様がハンナの祈りに応えて彼女に男の子を与えてくださったという出来事をお読みしました。その男の子サムエルは、3歳になると祭司エリに預けられ、神殿で主に仕える生活が始まりました。ハンナはサムエルのために、毎年、神殿に上るときに上着を縫って届けました。サムエルは母の愛情を感じながら、エリのもとで素直な性格に育っていきました。
サムエルが少年となった頃、祭司エリは高齢になり、目がかすんできて見えなくなっていました。そのころには神様の言葉が聞こえることも、幻によって御心が示されることも、ほとんどなくなっていました。そうなると世の中は人間だけで事が決められていきます。人々の心は神様から離れていきます。エリの息子たちも神様に背き、神殿で捧げられるいけにえを自分たちのごちそうとして奪い取っていました。それは神様を汚す行為でした。
そんなある日のこと。神様は神殿で眠っていたサムエルを呼びました。名前を呼ばれたサムエルは飛び起きて、「ここにいます」(4節)と答え、自分の部屋で寝ていたエリのもとへと走っていきました。しかし、「お呼びになったので参りました」(5節)と言うサムエルに、エリは戸惑います。「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」(5節)と言って、エリはサムエルを帰しました。
ところが続けて二度、同じことが起こります。神様から呼びかけられることなど、サムエルは想像もしていませんでした。エリもまた神様の言葉をしばらく聞いていなかったので、神様がサムエルを呼んでいることになかなか気づけません。それでも3度目にサムエルが呼ばれ、エリのもとに来たとき、ようやくエリは神様がサムエルを呼んでいることに気が付き、サムエルに言いました。
「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話ください。僕は聞いております』と言いなさい。」(サムエル記上3章9節)
サムエルが戻ると、再び神様が「サムエルよ」と呼びかけました。「どうぞお話ください。僕は聞いております」(10節)とサムエルが応えると、主はエリの一家に対する裁きを告げました。それは「両耳が鳴る」と言われるほどに厳しい裁きの予告でした。育ての親であるエリの一家への裁きの予告は、少年サムエルにとっても重く辛いものだったことでしょう。
翌日になってもサムエルは神様が語られたことを黙っていましたが、エリが強く促したことでようやくその一部始終をエリに話しました。神様の言葉はエリにとっても辛く受け止め難いことだったでしょう。それでも彼は、「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」(18節)と言って、主の言葉を受け止めました。
聞く用意ができたサムエル
エリは神様の言葉を聞けなくなっていましたが、少年サムエルは神様の言葉を初めて聞きます。祭司としてのエリの働きは終わりへと向かっていますが、その一方で、サムエルは最初の預言者として神様の言葉を取り次ぐ者となっていきます。
神様の言葉を聞く、ということが、この出来事では重要なポイントになっています。旧約聖書のヘブライ語で「聞く」という意味の言葉は“シェマ”といいます。“シェマ”は旧約聖書の中で何度も繰り返し語られる重要な言葉です。
例えば申命記には、「聞け」という神様からの呼びかけがあります。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章4~5節)
「聞け(シェマ)、イスラエルよ」で始まるこの言葉は、ユダヤの人々が毎日、朝と晩に捧げていた祈りの言葉です。神様の言葉を聞くことの大切さを、ユダヤの人々は毎日心に刻んできたのです。
“シェマ”は「聞く」と訳されますが、それは単に耳で聞くというだけの意味ではありません。“シェマ”は聞いたことに注意を払い、集中するという姿勢も含んでいます。さらには注意を払い、集中して聞いたならば、それに応答するはずだ、ということも前提とされています。
日本語では語られた言葉を受け入れ、実際の行動に移すことを「聞き従う」と言います。しかし古代ヘブライ語には「従う」という意味の言葉はありません。語られた言葉を受け入れ、行動に移す時には、単に「シェマします/聞きます」と言うだけで、聞き従うことも意味します。
逆に言えば、応答せず、従わないのであれば、それは神様の言葉を聞いていなかった、ということなのです。祭司エリは主の言葉を聞けなくなっていました。それは耳が聞こえづらくなっていた、というだけでなく、神様の言葉に従うことができなくなっていた、ということでもあるのです。
一方のサムエルは、神様の言葉を聞きました。彼は神様の言葉を聞く用意ができていました。まだ完全ではなかったかもしれませんが、エリの助けを受けて、神様の言葉を聞き、またそれを伝えることができました。「どうぞお話ください。僕は聞いております」という彼の応答は、神様の言葉を聞いてそれを受け入れ、それに従うという決意表明でもありました。
神様の言葉は、神様の御心を受け止め、それに応答することを求めています。聞くだけで終わるのであれば、そもそも神様の言葉を聞いたことにはなりません。御心を受け止め、それに従おうとする姿勢が重要です。サムエルにはその用意ができていました。用意のできたサムエルにこそ、神様は語り掛けたのです。
関わり合いながら聞く神様の言葉
サムエルは神様の言葉を聞き、それに従い、預言者として神様に仕えるようになりました。サムエルを通して神様の御心が行われていきます。ただこの物語を読んでいると、サムエルが自分だけで神様の言葉を聞けるようになったわけではないように思えてきます。
サムエルは母ハンナにとって待望の子どもでした。何年もの間、子どもを与えてほしいと願い続けたハンナにとって、サムエルは特別な存在でした。それでもハンナは神様への約束を守り、3歳になったサムエルを神殿に預けました。しかし毎年上着を縫って届けたように、ハンナのサムエルへの愛は変わりませんでした。サムエルは母ハンナの愛を受け、神様との約束を守る母の姿を見て育ちました。
神殿では、サムエルは祭司エリのもとで神様に仕えました。親子以上に年の離れた関係だったと思われますが、エリはサムエルを「わが子よ」と呼んでいます。エリもまたサムエルをわが子のように大切に育ててきたことが感じられます。
サムエルへの呼びかけが神様からのものであることを気づかせたのもエリでした。エリの導きがあって初めて、サムエルは神様の言葉を聞くことができたのです。既に年老いてしまったとしても、サムエルにとってエリは模範であり、また教師でもありました。
このように考えると、神様の言葉を聞くためには、サムエルだけがいたのでは不十分であって、ハンナやエリなど周りの人たちとの関わりが必要だったのでしょう。神様の言葉を聞き、それを受け入れ、応えていくことは、個々人がバラバラに行うことではなくて、人と人との関わりや協力、助けの中で行われていくことなのでしょう。
新約聖書ではパウロがコリントの信徒への手紙の中で、神様の霊が一人一人に色々な賜物や務め、働きを与えてくださっていることを語っています。それらの賜物や務め、働きが組み合わされて、全体の益となる霊の働きが現れます。誰かが神様の言葉を聞くということも、神様に仕えようとする人たちが関わり合う中で起こされていく出来事なのです。
神を愛し、隣人を愛する
「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」(サムエル記上3章1節)
それはサムエルとエリの時代だけでなく、今の時代もそうであると言えるのではないでしょうか。神様の言葉は聖書に残され、一人ひとりが手に取ることさえできるようになりました。しかしその言葉に聴き従っているかというと、それには疑問が残ります。世の中はあまりに人間中心主義になってはいないでしょうか。世の中で起こることは神様の御心を尋ねることなく、人間の都合や損得だけで決められてはいないでしょうか。
そうだとすれば、残念ながら神様の言葉は優しい慰めだけでなく、厳しい裁きの言葉ともなります。エリの一家が神様に背を向け、神様を汚していたように、今、人々が――特に力ある人々が――神様に背を向け、御心に背くようなことを行っているならば、神様は厳しい言葉を語られておられるでしょう。
厳しい裁きの言葉を告げることをためらっていた少年サムエルに向かって、サムエルは神様の言葉を隠してはいけないとはっきり命じました。さらにエリはサムエルを通して語られた神様の言葉を重く受け止めました。
「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」(サムエル記上3章18節)
神様の言葉は私たちを慰め、励まし、助けてくださいます。しかし他方では神様の言葉は私たちを戒め、清め、向きを変えさせます。教会は神様の言葉を聞き、伝え、応答します。そのとき、優しい言葉だけでなく、厳しい言葉も聞き、伝え、応答することが求められるでしょう。
私たちも神様の言葉を聞いて従う人々として生きたいと思います。自分がサムエルの立場になるのか、ハンナやエリの立場になるのかは、そのときによって変わるでしょう。しかしどのような立場であっても、神様の言葉は関わり合いの中で聞かれていくものだということを心に留めたいと思います。
そしてまた、神様の言葉を聞くことの大切さを心に留め、何が神様の御心であるかを聞き分けるために、ユダヤの人々に倣い、イエス様の教えを心に留めながら、最も大切な二つの戒めを覚え続けたいと思います。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章4~5節)
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19章18節)
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『ATD旧約聖書註解(7) サムエル記 上』ハンス・ヴィルヘルム・ヘルツベルク、山我哲雄訳、ATD・NTD聖書註解刊行会、1996年
『新共同訳 旧約聖書略解』木田献一監修、日本キリスト教団出版局、2001年
※Szabolcs MolnarによるPixabayからの画像

