礼拝メッセージ(2026年6月21日)「迫害を受ける神の人」テモテへの手紙二 3章10~17節

迫害をもいとわずに

パウロは第一回の伝道旅行で、バルナバと共にアジア州のアンティオキア、イコニオン、リストラといった町を巡り、イエス・キリストの復活を伝えました。彼らの宣教活動によって多くの人がイエス様を主と信じ、それぞれの町に教会が建てられました。

しかし、パウロの宣教を受け入れず、イエス・キリストの福音を信じようとしなかったユダヤ人たちもいました。彼らは同じ町の異邦人たちを扇動して、パウロを迫害させました。迫害は次第にエスカレートしていき、ついにパウロたちは石を投げつけられて瀕死状態になりました。それでもパウロたちはまだ生きており、次の町で宣教活動を続けました。

パウロの受けた迫害は、彼と同じユダヤ人が起こしたものでした。一方、キリスト教が広まっていくと、ローマ帝国による弾圧が強まっていきました。迫害の一番の理由は、キリスト教徒が皇帝を神として礼拝することを拒否したことでした。

日本でもキリスト教徒が迫害された歴史があります。徳川家康が発令した禁教令によって、キリシタンは厳しい迫害を受けました。キリシタンをあぶり出すための踏み絵が行われ、多くの信徒が処刑されました。遠藤周作の『沈黙』にも、その迫害のあり様が描かれています。

他方で、キリスト教が迫害する側となったこともあります。最も歴史が長いのはユダヤ人に対する迫害です。ヨーロッパではユダヤ人の隔離や虐殺が繰り返され、ナチス・ドイツによる大虐殺につながりました。また、キリスト教国家が世界各地を征服し、植民地化していく過程では、その土地の信仰や神殿を破壊したり、言語や文化を奪う同化政策にも加担したりしてきました。

日本ではキリスト教徒が1%未満ですから、キリスト者として生きていく中で、周囲の人たちや地域社会との軋轢が生じたり、不利益を蒙ったりすることがあるかもしれません。戦時中は「敵性宗教」として迫害や監視を受けましたし、今後も同じようなことが起こらないとは言い切れません。

このように、「迫害」という言葉で思い浮かべることは人によって異なるかもしれません。パウロは現実に命を脅かされる迫害を受けました。テモテは命の危険を感じてはいなかったかもしれませんが、苦難のただ中にいました。パウロはどのような迫害も苦難もいとわず、パウロに倣って宣教活動を担うことを、この手紙の中でテモテに求めています。

平和を求めれば迫害を受ける

「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」、とパウロは語ります(3章12節)。しかし、キリスト者の誰もが迫害を受けているわけではありませんし、迫害をする側になることさえあります。その一方で、沖縄の人々は日本とアメリカによって迫害され続けてきました。

沖縄には誹謗中傷が繰り返されてきました。2017年、普天間場バプテスト教会付属の緑ヶ丘保育園に、米軍のヘリコプターの部品が落下する事故が起こりました。この事故をきっかけに、保護者たちが保育園の上空を米軍機が飛行しないように訴えました。しかしその訴えは受け入れられず、むしろ保育園には「事故は自作自演だ」などといった誹謗中傷の電話やメールが殺到しました。事故を起こした米軍ではなく、被害を受け、安全対策を求めた保育園と保護者に非難が向けられたのです。

同じような事例はいくらでも見つかるでしょう。沖縄のある方は、黙って何もしない方が楽だと言っていました。平和行動をしても、自分の生活は良くなるどころか、人間関係でも経済面でも不利益しか被らない。失うものばかりです。それでも声を上げ、行動するのは、黙っていたら沖縄戦の地獄が待っていると知っているからだ、と話されました。

沖縄の先島諸島では軍事拠点化が進む一方で、台湾有事を念頭に、住民12万人を九州や山口に避難させる計画が政府によって立てられています。アメリカとイランとの衝突では、中東各国に置かれた米軍基地が攻撃されました。今年も米軍の軍人による性暴力が起こりました。何もせず、声も上げずに安全が守られ、平和に生きられるような状況ではありません。

沖縄は日本によって支配され、沖縄戦によって徹底的に破壊と殺戮が行われ、戦後はアメリカによる支配が続いています。そのような中で命を守り、平和を求めるならば、支配者への反抗と見なされ、迫害を受けることは避けられません。キリストに従うことで迫害を受ける、ということも、それと似た構図があるのではないでしょうか。

イエスから引き離す教え

普天間基地には、すぐ近くに米軍関係者の住宅と施設が集まる「キャンプ瑞慶覧」があります。普天間基地の滑走路のすぐ近くですが、米軍機はキャンプ瑞慶覧の上空を避けて通ります。それは基地内の人たちへの騒音や墜落・事故のリスクを取り除くためです。そしてそこを避ける分、沖縄の民間地の上空を米軍機が通ることが多くなり、騒音や事故のリスクが高まります。

基地の周りはフェンスで囲われていますが、米軍関係者と沖縄県民との間には、命の価値の面で大きな隔たりが存在します。それは日本(ヤマト)と沖縄(琉球)の間にも存在します。沖縄の人たちは米軍関係者を敵とは見なしていません。同じ人間として尊重してもらいたいと訴えているだけです。その声に耳を塞ぎながら愛を求めることは、聖書が語っていることなのでしょうか。沖縄の人たちが米軍関係者を愛しているか、ということよりもまず先に問われるべきことは、基地の中に住む人たちが沖縄の人たちを愛しているか、同じ人間として尊重されるべきだと思っているか、ということではないでしょうか。

パウロはテモテに、自分が学んだことから離れないようにと語ります。テモテはパウロから学び、また祖母ロイスや母エウニケから影響を受け、幼い日から聖書に親しんできました。それは大切な信仰であり、そこから離れないことが大切だ、とパウロは考えていました。

テモテをそこから離そうとしたのは、教会の中に持ち込まれた他の教えでした。いつの時代にも、教会の中にも、イエス・キリストから私たちを引き離そうとする教えが存在します。たとえ教会の中で聞いたことであっても、たとえ牧師・宣教師が語ったことであっても、その全てが受け継ぐべきものとは限りません。中には人を惑わし、イエス様の教えから引き離すものがあり得るからです。

迫害を受ける神の人

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(テモテへの手紙二 3章16節)

パウロが語ったこの言葉は真実です。私たちは聖書を通して神様の御心を知り、イエス・キリストと出会い、聖霊に導かれて、新たな生命に与ります。聖書は私たちすべての人への神様の愛を語り、この世界を守り、生命で満ち溢れさせ、平和を創り出す神様のご計画を伝えています。

問題なのは、私たち人間が罪人であり、不完全である、ということです。イエス様を迫害した祭司長たちも、パウロを迫害したユダヤ人たちも、聖書を大切にしていました。聖書を元に語っていても、それが神様の御心を伝えるものとは限りませんし、むしろイエス様を迫害することも起こり得ます。それは今の時代でも同じです。

そのように考えると、誰の声を信じていいのかわからなくなりますが、今日の箇所から一つのヒントをいただきます。それは、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(3章12節)、ということです。

イエス様も、パウロも、迫害を受けました。聖書の中でも、神様に仕え、神様の言葉を伝えた人には迫害を受けた人が何人もいます。その一方で、迫害をしながら神様の言葉を伝えた例は思い浮かびません。

神様はすべての人を愛する方であり、最も小さくされた人々と共に生きられる方です。支配し、奪い、大きな力を得ることは、サタンの誘惑です。生命の間に線を引き、一方だけを尊ぶことは、たとえ聖書の言葉を利用して語られたことであっても、神様の御心ではない、と私は思います。

神に仕える人は迫害を受けます。迫害を受ける人と共に、イエス様は歩まれます。そうだとするならば、迫害を受ける人たちの声の中から、私たちは神様の御心を聞き取ることができるかもしれません。力を持った者たちの声は魅力的であり、迫害される者の声はかき消され、聞き取りづらいかもしれません。それでも私たちが神様の御心を知り、神様に仕えて善い業を行う者へと整えられるためには、迫害を受ける人たちの声を聞き、その声に応答することが欠かせないことなのではないでしょうか。

牧師 杉山望

※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。

 (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation

 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

参考書籍・サイト

『新共同訳 新約聖書略解』山内眞監修、日本基督教団出版局、2000年

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