あなたが神さまを見限ったのではないか
神さまは私を見捨てたのではないか?イスラエルの民が荒野で旅をするなかで呟きの言葉である。灼熱の荒野で食べ物がない、喉が渇いた。彼らはつねに足りないということを呟いていた。彼らが呟くたびに神さまは食べ物と水を与えてご自分が彼らの神さまであることを示された。それでも彼らは神さまに信頼して歩むことができなかった。神さまの恵みと彼らの満足が違ったのである。私たちが満足しなければ神さまの恵みはないのか?そうではない。神さまの恵みはいつもイスラエル彼らの前にあり続けた。しかし、彼らには恵みと見えなかったのである。彼らは早々にして神さまを見限った。それゆえに彼らは神さまが導くといわれた約束の地に入ることができなかった。私は思う。たとえイスラエルの民が約束の地に入ることができたとしても彼らは満足しただろうか。いや、そこでも彼らは神さまを見限ったかもしれない。私たちはどうだろうか?満足した生活であっても徐々に命を奪われている中に気づかないこともある。辛いように見えてもまことに生かされていることがある。私たちはどちらを選択するのだろうか。