はじめに
先週、私たちはパウロの使徒職について福音は私たちに受ける資格があるから与えられるのではなく資格がないにもかかわらず神さまの愛と憐みのゆえに与えられたのであることを学ぶことができました。パウロは「こういうわけで、わたしたちは、憐みを受けた者としてこの務め(福音を宣べ伝える)をゆだねられているのですから、落胆しません。」(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ:4章1節)と福音に仕える者として落胆あるいは失望することなく、勇気を失わない、パウロ、コリント教会あなたたちが持っている福音はこんなにも確かな希望と約束が保証されているものだと確信を持って語ります。
キリストだけを語る
しかし、パウロの伝道は決して楽な道ではありませんでした。「十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。…ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅰ:1章23節)とパウロの時代も「ああそうですか」とキリストの福音を素直に受け入れ、信じる人はそう簡単にはおらず、反対に福音は同胞のユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かなものとして拒否されました。
ですから、パウロに敵対していた人たち、エルサレム教会から来た偽巡回伝道者たちは、「パウロは偽使徒であり、その福音は間違っている、だから伝道がうまくいかないのだ」とパウロを非難しました。私たちも人々に福音が受けいれられず、教勢が思うように伸びない時、失望・落胆し「キリストの十字架」を語るから人々は福音を受け入れないのだ。もっと人々が受け入れやすいような面からアプローチしようと考えてしまいます。
しかし、パウロは愚直にかえって、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ:4章2節)
キリストだけを語るのだと、キリストこそが人々を救うことができるのだからと福音を捻じ曲げて語ってはならないと厳しく警告しています。
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ:4章7節)
パウロは自分のことを「土の器」であると言いました。土の器をとおして、人間の脆さ、弱さ、欠けている自分がいるのだと。私たちはとかく外面を重視します。金である、銀であるとか、しかし、大切なのは器の中に何が入っているかではないでしょうか。
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ:4章6節)
私たちが福音に生きるというとき器が問題ではないのです。器の中に入っているイエス様の復活の命が輝いているかどうかが大切なのです。主は土の器である私たちの中にいて眩しいほどの光で私たちの内を照らしておられます。この光に照らされて今週も歩んでまいりましょう。 |