聖書・創世記:12章16節 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。
創世記18章前半1~15節では主がアブラハムのところへ立ち寄るところから始まります。主はアブラハムとサラに「来年今ごろ、必ず男の子が生まれているでしょう」(聖書・創世記:18章10節)と約束されました。サラは年老いた自分を見てあきらめでしょうか?主の言葉を笑います。主はサラの不信仰をたしなめつつも「主に不可能のことがあろうか」(聖書・創世記:18章14節)と主の約束の言葉の確かさを告げるのです。今日読んだ聖書・創世記:12章16節以下では、アブラハムは神様によって滅ぼそうとされる町ソドムの為に執り成しをする場面です。
聖書・創世記:12章17節 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。
ソドムという町はアブラハムの甥であるロトが住んでいました。豊かな町であったゆえにソドムの人たちは邪悪で神様に対して多くの罪を犯していました。(聖書・創世記:13章13節)ソドムの町の罪を裁くために主は行こうとしますが、そのことをアブラハムに知らせます。なぜ神様はアブラハムに知らせたのでしょうか?「正義を行なうように命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」(聖書・創世記:12章19節)神様の思いは、ソドムの町を滅ぼすことにあるのではなくソドムと人々のためにとりなしの祈りをアブラハムに与えられます。
聖書・創世記:12章22節 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
ソドムの町をこれから裁きに行こうとされていることを聞いたアブラハムの心に甥のロトと家族のことが思い浮かんだことでしょう。アブラハムはロトのことを主に願いでるべきか躊躇していました。神様が決めたことに口を挟んでよいものかどうか?「アブラハムはなお、主の御前にいた。」(聖書・創世記:12章22節)アブラハムが主の御前に居続けたかのように書いていますが、原文ではそうでなく「主がアブラハムの下にたった」、言っていいのか戸惑っているアブラハムを神様は待っているかのようです。
聖書・創世記:12章23節 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
意を決してアブラハムは神様の御前に進み出て、ソドムへの裁きについて、懸命にとりなしました。アブラハムは「45人なら」「40人なら」と言い、ついには「10人」にまで、正しい人がソドムの町にいるなら滅ぼしはしないと、主の約束をいただくのです。「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」と言われる神様は、ご自身とソドムとの間にアブラハムを立たせ、とりなしの祈りへと招きます。アブラハムもまた、神様の招きを受け入れ、御前に立ち続けるのです。
あきらめないで
私たちもあきらめずに主の御前に立ち続け、主との関係が壊れてしまった世界の中にあって痛み、弱さのなかにある人たちのためにとりなしの祈りを捧げていく使命を主から与えられているのではないでしょうか。 |