礼拝メッセージ(2018年7月22日)

「主の愛による救い」

聖書・創世記:19章15節~29節

林 健一 牧師

 救いの神)  聖書・創世記:19章12節:二人の客はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。
ソドムとゴモラの町のさばきがなされようとしています。私たちは旧約の神は罪を厳格に裁くお方として見ようとします。そうでしょうか?神様は罪に対して妥協のない厳しい聖なるお方です。しかし、神様は決して滅ぼしたくてうずうずしている神様ではなく、なんとかひとりでも多くの人を滅びから免れさせたいと願っておられるお方であることがわかります。最終的な、ソドムへの審判が決定した今、アブラハムとともに旅をしていたロトひとりを救おうとするのではなく、ロトにかかわるひとりでも多くの人を滅びから免れさせようと、神様はその婿に至るまで招かれました。しかし、「婿たちは冗談だと思った」と聖書・創世記:19章14節に記されているとこからから見ると、ロトをとおして語られた神様の言葉をまともに受け止めようとはしませんでした。けれども、ひとりでも多くを閉じ込めて滅ぼそうとするのではなく、救い出そうとして労力を惜しまない神。それにもかかわらず、この大切なメッセージに対して冗談ごととしか受け止めきれない人間。その両者の違いが浮き彫りに描きだされているかのようです。

抜き差しならない本性が) 聖書・創世記:19章18節:ロトは言った。「主よ、できません。」
救いの招きに一度はあずかったロトでしたが、いざという時になって、突然渋り始め、100パーセント救いのメッセージに従うことに、躊躇し始めたのです。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」(聖書・創世記:19章17節)と救いの道筋を示されたはずなのに「しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。…御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。」(聖書・創世記:19章19節~20節)と懸命に条件をつけ始めています。ロトの妻に至っては、「後ろを振り返ってはいけない」(聖書・創世記:19章17節)と言われたのに、「振り返ったので、塩の柱になって」(聖書・創世記:19章26節)しまいました。ロトのぐずぐず、ロトの妻の振り返りのように、神様の救いの言葉に対して、積極的に応答しないこと、できないことがあります。目指すところが分かっているはずなのに、一歩を踏み出せないことがあります。救いの招きにあずかったとはいえ、ロトと家族のもたもたは、うなじのこわい人間の抜き差しならない本性を如実に物語っています。

戻ろう神様のもとへ) 聖書・創世記:19章29節:こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。
ソドムとゴモラの町は滅びました。しかし、神様はアブラハムを覚えておられたゆえにロトを破滅のただ中から救い出されました。ロトはアブラハムのとりなしの祈りゆえに破滅から救われました。ただ神様の恵みによって救いが与えられたのです。私たちクリスチャンも自らを救うことはできない者でしたが、イエス・キリストの恵みによって救われました。つい恵みから離れることもありますが、絶えず神様のもとへ戻っていこうではありませんか。