礼拝メッセージ(2019年12月15日)
『 夜も昼も神に仕える 』 ルカによる福音書 2章:36~39節 林健一 牧師
喜び
アドヴェント第三週を迎えました。アドヴェントクランツに3本目のキャンドルに灯りが燈されました。3本目のキャンドルは「羊飼いのキャンドル」と呼ばれ、「喜び」を表しています。キリスト(救い主)の誕生が最初に告げられたのは羊飼いたちでした。羊飼いたちは飼い葉桶に寝かされている幼子イエス様を見出し、喜びに満たされます。クリスマスの出来事は私たちに伝えるメッセージは真の喜びはイエス・キリストに見出すことができる。いや、イエス様にしか見出せないということです。ネヘミヤ記8章10節には「主を喜び祝うことこそ、あなたの力の源である」とあります。口語訳では単刀直入に「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」と神さまを喜ぶことこそが私たち人間の喜びであり、力であるのだと語ります。聖書が語る究極的な「喜び」とは、自分が神さまに愛されてくることから来る存在論的な喜びです。「喜び」を行為的に捉えるのではなく自分の存在の根拠をいつもどこに私たちは置いているかを絶えず意識しなさいとイエス様も「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10・20)と言われました。
喜びをどこに見出しますか?
聖書が語る喜びの根源が神さまにあるというなら、私たちは今までどこに?何に?人生の喜びを見出していたのでしょうか?私たちはこう思うのではないでしょうか。「神さまを喜ぶことが私たちの喜びとなる。そんなの何の楽しみもない。どこに喜びがあるのか」と。そうです。私たちは神さまには喜びがないと結論づけてしまいます。礼拝も大切だけど私を喜ばせるものはあまりないなと。ですから私たちは神さま以外のものにも喜びを見出そうとします。むしろ人生の目的をそこに焦点を合わせます。しかし、これだけを私たちが喜びの源泉とするなら私たちは今、生きている人生において喜ぶことはそう多くはないでしょう。いや反対に喜べないことに不満や怒りを持つことのほうが多くなるかもしれません。
絶望から見えてくる喜び
教会のなかでもそのようなことがたくさんあります。神さまを信じていても、その人がどんなにすばらしい信仰を持っていたとしても喜びを見出せない状況が長く続くことがあります。教会のなかに行き詰まっている方がおられる。切望に打ちひしがれている方がおられる。そのような方々に対し私は何もできないことに自分に対して絶望しかありませんでした。慰めや希望の言葉もかけられない自分に苛立ちを感じていました。しかし、その時の私に向かってあなたはこう語れと「主を喜び祝うことこそ あなたの力の源である」。そのときの私の信仰は本当の意味で神さまを喜ぶということがわかっていませんでした。神さまを信じれば何かが変わっていく、よくなっていく。それも間違っていません。けれども神さまが私たちに与えておられる究極の喜びについて何もわかっていなかったのです。
主が私の祈りを生涯に亘って聞き入れられる
神殿でのイエス様にシメオンの他にもう一人のアンナという女預言者が出会います。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。」(37)アンナは84歳という高齢でした。彼女にできることはただ神さまに祈り、夜も昼も仕えることでした。彼女の祈り、人生のすべては神さまに愛されていました。彼女の喜びはそこにありました。彼女は知っていたのです。人生における究極の喜びは神さまを知ること、神さまに覚えられること。私たちの真の喜びはどこにあるのか?救い主イエス・キリストを通して見出していきたと思います。