礼拝メッセージ(2019年12月22日)
『 神さまはどこに? 』 マタイ 2章:1~12節 林健一 牧師
わたしを愛する顔をさがし求めて
12月19日付け東京新聞の筆洗の記事を読みました。小説家藤田宜永(よしなが)さんのお母さんとのことが文章の最初に書かれていました。母親との折り合いが悪かった。幼少のころより学校の試験でよい点を取ってもほめられたことがなかった。むしろ間違いをしつこく責められた。自分は母親から愛されていない。やがて彼は家を飛び出し、お母さんが亡くなるまでぎくしゃくした関係が続いたそうです。葬儀の時、彼はお母さんの顔に驚きました。自分を叱っていたヒステリックな顔ではなく「小さな小さな可愛い顔」だったそうです。藤田宜永さんは心の中で母親にこう語りかけたそうです。「どうして、その顔で僕を育てなかったんだい」
そのあとに家族に暴力をふるう息子を刺し殺してしまった父と子の関係のことが書かれていました。お互いの本当の顔を見失った哀れな父親と息子。父親が息子の本当の顔を思い出す日の来ることを願う。筆洗の記事を読みながら思いました。私たち人間という存在は見える顔が必要である。それは自分を愛し、見つめてくれる顔を必要としているということです。孤独なとき、疲れたとき、苦しいときに私たちを笑顔で迎えてくれる顔があるだけで私たちは生きていく力が与えられるのではないでしょうか。「神さまはどこに?」私たちが神さまを求めてさがすのは私を真に愛してくれる顔を求めてさがし続けているのではないでしょうか。
神さまの顔はどこにある?
私を愛し迎えてくれる顔はどこに行けば会えるのでしょうか。どこに行けば神さまのみ顔を見ることができるのでしょうか。詩篇に神さまのみ顔を求める祈りが出てきます。
27:8 心よ、主はお前に言われる 「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
この詩を謳ったのはダビデというイスラエルの王様でした。ダビデの子孫から今日、世界中でお祝いされている救い主イエス・キリストがお生まれになりました。このときダビデは前の王であるサウルに命を狙われる状況にありました。信頼していたはずのサウル王が妬みと憎しみにかられてダビデを執拗に追いかけ命を狙うのです。ダビデは思ったでしょう。サウル王をはじめすべての人の顔が自分に対して敵意をいだき、憎しみの顔をもって自分を見ている。私を真にゆるし愛し受け入れてくれる顔はどこにあるのだろうか?
4本目のキャンドル「愛」
アドヴェントクランツの4本目のキャンドルに灯りがつきました。ついに4本すべてのキャンドルに灯りがつきました。待ち続けていたクリスマスももうすぐです。この4本目のキャンドルは「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、「愛」を表しています。神さまの愛の現われであるメシア(救い主)であるイエス・キリストが生れた場所が、今日読んだ聖書の箇所に出てくるベツレヘムでした。4本目のキャンドル「愛」父なる神さまがイエス・キリストをとおして私たち人間に与えてくださるプレゼント、私たちが最も欲しているものが今日、ここにあります。そのなかでも私たち、この世界が一番に欲しているのは「愛」です。イエス様を最初に礼拝した占星術の学者たち、彼らは「愛」をさがしにやって来たのです。
「愛」はわからなくてもいい、これから知ればいい
イエス様に出会うならあなたは「愛」を知ります。わからなくてもいい、これから知ればいい。イエス様に出会うときに「愛」がどれほどにあなたを幸せにするかをあなたは知るようになるのです。