礼拝メッセージ(2019年12月29日)

『 イエスの知恵 』 ルカによる福音書 2章:40~47節   林健一 牧師

イエス様は神童?
 福音書には、主イエス・キリストのご生涯、そのみ業やみ言葉が語られています。それゆえに私たちは福音書をキリストの伝記だと思ってしまいがちです。けれども福音書は伝記ではありません。伝記というのは、ある人の誕生から死までの歩みを語るものですが、福音書はそれらのことをほとんど語りません。唯一、イエスさまの子ども時代のことを語っているのが、ルカによる福音書の本日の箇所です。福音書は、イエスさまがいかに立派な人間であったか、どんな素晴らしい働きをしたか、そして子ども時代からその片鱗が伺えた、というようなことを語ろうとはしていないのです。しかし本日の箇所は、47節にあるように、12歳の少年イエスが、その賢い受け答えによってエルサレムの学者たちを驚かせたことを語っています。この話だけは、他の偉人たちにまつわる伝説と同じように、イエスさまが12歳にして既に学者たちをうならせるような知識と弁舌を持っていた、ということを語っているのでしょうか。

過越祭に 信仰の自立

 さて、41、42節を読むと、イエスさまの両親、ヨセフとマリアは毎年過越祭にエルサレムに巡礼に行っており、イエスさまが12歳になった年にも、イエスさまを連れてエルサレムに上ったことが分かります。イスラエルでは12歳になったということには特別な意味があります。ユダヤ人たちは13歳になると一人前の大人の仲間入りをするのです。一人前になるとは、神さまの民の一人となり、神さまを礼拝し、その掟、律法を守って生きる責任を負う者となるということです。信仰の自立です。過越祭は、旧約聖書の箇所である申命記16章の始めのところにあるように、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから脱出したことを記念する祭です。その日には、いわゆる過越の小羊を屠って家族みんなで過越の食事をするのです。そしてそれから七日間、酵母を入れないパンを食べます。これも、エジプトからの脱出を覚えるためです。神さまは彼らの信仰が自分たちでなく神さまの憐れみと恵みによって立っていることを教えられようとされたのです。私たちの信仰も自分でなく神さまの憐れみと恵みによって立っていることを知りたいと思います。

神の言葉を学ぶイエスさま
 12歳の主イエスは神殿で何をしていたのでしょうか。それは46節にあるように、「学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりして」いたのです。そして「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」のです。この「学者たち」というのは、律法の学者たちです。主イエスは、律法について、神様のみ言葉について、話を聞き、質問していたのです。ここに、ルカがこの話を福音書に含めた一つのポイントがあります。主イエス・キリストは、先輩の教師たちから神さまのみ言葉を熱心に聞き、学びつつ育ったのです。主イエスは、神さまの独り子、まことの神であられる方です。そのまことの神が私たちと同じ人間になって下さったのです。その時主イエスは、人間の教師たちからみ言葉を聞き、学びつつ育つ者となられました。神の子、まことの神なのだから、人から教えられなくても神の言葉は最初からよく知っている、分かっている、とはおっしゃらなかったのです。ここに、私たちと同じ人間になって下さった主イエスのへりくだり、謙遜が示されています。それと同時にここには、私たちが神様のみ言葉、教え、つまり信仰の事柄に対して取るべき姿勢が示されていると言えるでしょう。イエスさまが私たちに示してくださる知恵とは、自分は誰よりも知恵があるという驕り高ぶった姿でなく、神のみ言葉を聞き、人間の教師から学ぶ謙遜な姿です。私たちも神と人の前にへりくだりつつ学び続ける者となっていきたいと祈り願います。