礼拝メッセージ(2024年4月7日)
『 復活のゆだねる決断 』
石井努 牧師
箴言 16章:1節~9章

1:箴言/ 16章 01節
人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。
2:箴言/ 16章 02節
人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。
3:箴言/ 16章 03節
あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。
4:箴言/ 16章 04節
主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。
5:箴言/ 16章 05節
すべて高慢な心を主はいとわれる。子孫は罪なしとされることはない。
6:箴言/ 16章 06節
慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。
7:箴言/ 16章 07節
主に喜ばれる道を歩む人を/主は敵と和解させてくださる。
8:箴言/ 16章 08節
稼ぎが多くても正義に反するよりは/僅かなもので恵みの業をする方が幸い。
9:箴言/ 16章 09節
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。

箴言 16章:1節~9章(新共同訳聖書)

           

 人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。と2節にあります。「道」とは、「行い」、「歩み」とも訳されます、また「精神」とは厳密には「魂」と訳されます。心の奥底に隠された「動機」を主が判断されるという意味ではないでしょうか。つまり、この箇所の意味は、人は、誰も、自分が正しい道を歩んでいると思い込んで動くとしても、主は心の奥底にある動機を見ておられるというのです。これは、「人間の前途がまっすぐのようでも、果ては死への道となることがある」という25節のことばと結びつきます。安心はできません。自分はまっすぐに歩んでいると思う人に限って、地獄への道を歩んでいるということがあるからです。ですから「自分の道」を注意深く監視するという必要があるというのです。とにかく、「私は見えている」「私はわかっている」と思うことの「危うさ」をこれらのみ言葉から教えられます。「無知の知」という哲学用語がありますが、 文字通りの意味は「自分が無知であることを知っていること」が重要であるということです。言い換えると「知らないこと」よりも「知らないことを自覚していない」ことの方が罪深いということです。何よりも、自分の限界を知ることこそ、最も必要な知識なのでしょう。パウロも、「偶像に備えられた肉は食べてはいけない」と押し付ける人々に「我々は皆知識を持っている。」ということは確かです。「ただ知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」と「偶像の神などはなく、唯一の神が居ることをわたしたちは知っています。」と答えています。「知識」よりも、「神を愛する」ことを優先するように勧めたのです。(Ⅰコリント8:1-3)。


 わたしたちは、よく「主に委ねる」とか「お委ねします」と「ゆだねる」という言葉を使いますね。あなたにとって「ゆだねる」とは何を意味するでしょうか。どんなふうに想像するでしょうか。ある人にとっては、それは「あきらめる」こと、つまり、自分で努力するのをやめること、またある人にとっては、いろんなことを事前に考えるのを止めて、不確かな計画にでも身を任せるせることかもしれません。しかし、そのどちらにも問題があるのは明白ではないでしょうか。聖書が勧める「ゆだねる」とは、何をするにもすべてを祈ることから始めることです。「ゆだねる」とは、恐怖心に打ち勝って大胆に生きるという以前に、自分の思い悩みを神に正直に打ち明けることでもあります。「ゆだねる」とは、自分の信頼する主に自分の心も身体も用いていただくという、真の自分らしさが生かされる歩み方です。そして、神にゆだねた生き方とは、何よりも与えられた一日一日を大切に生きることです。