礼拝メッセージ(2020年1月5日)

『 自分の父の家にいるのは当たり前 』 ルカによる福音書 2章:48~52節  林健一 牧師

 2020年、最初の主日礼拝です。心を新たにしてこの一年を歩んでまいりたいと思います。新年礼拝では「新しく生れる」とは自己の新しい認識でなく「上から」つまり「神さま」によって人は新しくされるのだ。その結果新しい歩みをすることができるのだということをお話ししました。イエス様も12歳という少年から大人になる段階で神さまによって「新しく生れる」経験をしております。先週読んだ2章41節からでは神殿の境内で律法学者たちに熱心に質問をしているイエス様の姿から「イエスの知恵」というのをどういうものかを学びました。聖書が私たちに教える「知恵」というのは謙遜に神さまのみ言葉を聴き、学び、積み重ねていくなかに「知恵」は身につけられていくのだ。イエス様がそうやって成長していったように私たちも神さまのみ言葉を聴き、学び、積み重ねていくなかにクリスチャンの成長というものがあるし、幸いで確かな人生を歩んでいくことができるのです。
 そして、「自己」というのも神さまによって確立されていることを今日のイエス様のお言葉から私たちは学ぶことができます。

自分の父の家にいるのは当たり前

 今日読んだ2章48節からのイエス様と母マリアとの言葉のやり取りとナザレに下っての生活ぶりからイエス様ご自身の自己理解、自意識がどのようなものであったかを知ることができます。イエス様を捜しにエルサレムに戻ってきた両親は神殿の境内におられるイエス様を見つけて安堵したことでしょう。勝手なことをしたイエス様に母マリアは48節「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです』」。「ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。とマリアが言ったのに対して、イエス様は49節「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の-わたしの父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と、こう受け答えするのです。両親を心配させておきながら何という答えをするのかと世間一般の常識からみると思うのではないでしょうか。しかし、イエス様は自分にとっての真の父が誰であるかを知っていたということをこの箇所では私たちに語りたいし、教えたいのです。
 「あなたのお父さんが心配している」と言われたのに対して、わたしはちゃんと「わたしの父の家にいる」と、そうイエス様は言うのです。この「父の家」とはもちろん神殿です。神の宮です。それで、この神殿にイエス様がいるのは「当たり前」だと訳されているのは、いる「べき」という、義務とか使命とか任務を表す言葉が使ってあります。つまりイエス様は、わたしは自分の父つまり神さまの宮にいるべきだ、それが神さまのみ旨だ、とお答えになったのです。イエス様はここではっきりと「自分の父」は神さまであるという理解、自分はヨセフの子ではなくて「神の子」であるということ。そして神の子として自分は「父の家にいるべき」だ、神殿にいるべき者である、こういう自己理解、自意識をはっきりと持っていた。少年イエス様のときから救い主として召命と使命を覚えて感じていたのだということが今日の聖書からはっきりとわかるのです。私たちはイエス様の言葉をとおして重大なことを見落としていたことに気づかなければなりません。
 第一に父なる神さまが私たち一人ひとりにとっても「自分の父」だということ、第二に私も「神の子」だということ、第三に「神の子」として「自分は父の家にいるべきだ」という立ち位置、生き方を少年イエス様は確立されていたということです。私たちにとってイエス様の確立された生き方は手本です。イエス様がそのようにご自分を確立された背後にはみ言葉と礼拝に生きられた裏づけがあります。この一年み言葉と礼拝に生きるシンプルな歩みを確立していく教会、私たちでありたいと祈り願います。