礼拝メッセージ(2024年3月17日)
『 十字架 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 19章:16節~22章

16:ヨハネによる福音書/ 19章 16節
こうして、彼らはイエスを引き取った。
17:ヨハネによる福音書/ 19章 17節
イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
18:ヨハネによる福音書/ 19章 18節
そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:ヨハネによる福音書/ 19章 19節
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
20:ヨハネによる福音書/ 19章 20節
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

21:ヨハネによる福音書/ 19章 21節
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
22:ヨハネによる福音書/ 19章 22節
しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

ヨハネによる福音書 19章:16節~22章(新共同訳聖書)

             

 その丘はダマスコ門の北東にあり、およそ250メートルと言われていますから、市街地からすぐ目の先でありました。石打の刑なども行われる場所でもあったので、多くの町の人がその札を読みました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」それはヘブライ語、ローマのラテン語、ギリシャ語で書かれてありました。 そして、イエス様はユダヤ人の王として十字架につけられたのです。ここに神の計らいはありました。


 その場に居合わせた。様々な人々の嘲りや非難は、実に神の救いの業の中で、歴史的に変化をとげていきます。嘲られ、笑われ、鞭うたれた哀れな「ユダヤの王」は少しずつ世界を引き付けて行きます。このお方は「自称、ユダヤの王」だったのか。それとも本当に「王」であったのか、明らかになって行きます。ピラトは、イエス様の罪を見出せずに赦そうとしました。しかし、ユダヤ人たちは「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」 そう訴えるのです。ピラトはユダヤ人の暴動を畏れ。自分を守るために、イエス様に十字架刑を言い渡したのです。マルコの福音書によれば、イエス様が大声を出して息を引き取ったその時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。それを見ていた百人隊長が「本当に、この人は神の子であった。」と言った。と記されています。多くの人々が自分の目で、イエス様の約束が何であり、イスラエルが何をしたのか見たのです。ピラトの心にも残ったでしょう。人々の心にも深く刻まれたでしょう。心あるファリサイ派の何人かの心にも残ったでしょう。こうして、「イエスは、神から見捨てられ十字架にかかった」と言われました。最も深い屈辱の中においても、神は今もなお「イエスがキリストである。」という証言を、イエス様のために備えられたのです。そして、神の備えは、救い主と信じる私たちに残されたのです。


 この受難のしるしは、救いの歴史の始まりとなりました。それは、聖書の言葉が成就するためです。この人間的な過ちの歴史の後ろに、神の生きた歴史があるのです。今もなお続く醜くどうしようもない人間の愚かさ。誤りに気付くことのないこの世の者たち。為政者たちは、今この時も右往左往しています。しかし、その中にあっても神の正しさとみ旨は着実に支配を確かなものにしているのです。神のみ旨は勝利して行きます。わたしたちにとってもどかしく思えるかもしれませんが、イエスキリストの神は勝利しているのです。人間の愚かさと混乱の歴史は、やがて迎える終末における神の摂理の歴史なのでしょう。実に、「エッケ・ホモ」「この救い主を見よ」と唯一このお方によって世界は動いているのです。