礼拝メッセージ(2019年8月11日)
「聡明で知恵を得る」 創世記41章37~57 教会員I
聡明の動詞は「悟りを与える」と訳されたサーハルです。そしてそこには、賢くする、知恵・思慮・分別を与える、心を配る、注意を払う、ものごとをじっくりと考える、見抜く、教える、諭す、といった意味があります。そのほかにも、成功する、栄える、繁栄する、勝利を収めるといった意味もあります。
物語の顛末から、ヨセフの経験を検証。ヤコブのもとに暮らしていた時のヨセフは父の寵愛をよいことに兄たちを軽んじ調子に乗っていた者であったこと。エジプトに売られ奴隷にまで落とされたこと、それでも神は彼と共におられてヨセフを守られたこと。ポティファルの妻の誘惑にあったが、それに負けなかったこと。再び牢獄に繋がれたが、夢を解くことで自分の力を使って脱出をもくろんだこと。そして牢からの解放というこの時まで2年の間牢獄で囚人の世話をしながら暮らしたこと。18歳で売られて30歳まで12年間という長い間であったこと。ヨセフはその都度、今まで信じてきた自分の神に対する信仰が何度も崩れそうになったことでしょう。それでも、神は彼を見放すことはなかった。彼の信仰はなくなることはなかった。
12年の間の彼の苦難は彼に様々な体験をさせ、エジプト人とのかかわりの中で、知恵と知識を積み重ねてきたであろうこと。聡明で知恵のある者は、神の霊に祝福された者と言えるでしょう。神の知恵は、先ほど聡明と訳された言葉を説明しましたように、わたしたち信じる者に「悟る心を与えます」悟る心は神のご意志を受け取る心です。わたしたち自身に置き換えてみれば、いやなことも、嬉しかったことも、悔しかったことも、苦しい経験も、神があなた自身にしか下さらない賜物であると言えないでしょうか。あなたにだって同じことが言えるのです。もしかしたら、わたしたちも経験の中で12年間とは言いませんが苦しい時期があったかもしれません。あるいは、今もそのさなかである人がいるかもしれません。しかし、その経験は決して無駄にならないということです。積み重ねた経験は誰も奪うことはできません。むしろその人にしかない宝物であると言っても良いかもしれないものです。ヨセフは見事にそれを生かした。それによって新たな未来を歩くことになった。 わたしたちも、自分自身が経験をしたことの中に埋もれている知恵を悟る心をもって神から頂いて生きたいものです 。