礼拝メッセージ(2019年8月4日)

『 救い主である神を喜ぶ 』  ルカ1:46~49a  牧師 林健一

マリアの賛美は主を大きくする
 46節以下に語られているいわゆる「マリアの賛歌」は、エリサベトの「主がおっしゃったことが必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉を受けて応答した賛美です。「あなたは幸いな人です」と告げられたマリアが、それを素直に感謝して「そうです、私はなんと幸いな者でしょうか」と歌っているのです。マリアは「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌い出しました。
 「あがめ」という言葉が冒頭に来ています。後のキリスト者たちは「あがめる」のラテン語訳から「マグニフィカト」と呼んで、賛美に用いるようになりました。「マグニフィカト」その意味は「大きくする」です。「主を大きくする」それは、自分を小さくする、ないしは自分の小ささを認める、ということです。自分を大きくし、神さまに自分の大きさを主張している間は、主を大きくすることはできません。神さまを見ることもできません。神様をあがめるためには、自分の小ささを認めて、神さまの御前に低くなることが必要なのです。
 神さまよりも自分を大きくして他者に賛美することを強いる現実が私たちの周囲にもあります。それがやがて私たちの心を支配し、飲み込んでいくのです。狂気に変わり人を傷つけていきます。マリアはそのように、自分のために賛美を歌えという力に取り囲まれているなかで、あなたでもない、あなたでもない、神さまこそ大いなる方、と歌った。と
 マリア自身がそれをしていることが、48節の「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」という言葉に現れています。マリアは自分のことを「卑しい女」と呼んでいるのです。しかもマリアはここで、自分は神様のはしためです、とへりくだっているだけではありません。その自分に主が「目を留め」てくださったのです。主がこちらに顔を向けてくださった。49節の言葉で言えば、「力あるかたが、わたしに偉大なことをなさいましたから。」ということです。神さまのみ前で身分の低い、主のはしためでしかない自分が、神さまに選ばれ、その偉大な力によって用いられて、神さまの恵みの御業を担う者とされた。マリアはそこに自分の幸いを見ています。