礼拝メッセージ(2019年8月18日)

『 主 の 憐 み 』  ルカ 1:49b~56  牧師 林健一

 今週も引き続きマリアの賛歌を読んでいきます。47節~49a節までの部分はマリア自身が受けた神さまの大いなる御業をほめたたえます。今日は49b~55節まで、これはもっと範囲を広げて、多くの人々に示される神さまの御業をほめたたえる、そういう部分です。神さまが私たちに示される救いの御業は私だけでなく多くの人々に示されるのです。本日は召天者記念・平和礼拝です。神さまの救いの御業が世界のすみずみまで及んでいる。争いのあるこの世界に神さまの御業が確かに示されていることを知りたいと思います。
神さまのご性質とそのご性質から出てくる神さまの具体的な御業
 「主はその腕で力を振るわれる」詩編118編15節後半「主の右の手は御力を示す」の引用。
・神さまが「その腕で力を」現される。52節「権力ある者をその座から引き降ろし」神さまにこそ「権力、権能、力」の根源がある。この神さまが地上のいろいろの王者や司(役人)たちに権力を与えておられる。53節「富める者たち」神さまこそ本当の万物の所有者である。「富める者たち」は、その神さまから一部をお預かりさせていただいているに過ぎない。
・「思い上がる者たち」「思い上がる者」 口語訳聖書では「心の思いのおごり高ぶる者」この「思い」とは「分別力、判断力」。「心」というのは本当にハート、その人を根源的に動かすところの心の座です。神さまから与えられているはずの「力・富」を思い上がって自分のもののように持つのか、神さまからの委託だと畏れてスチュワードシップを発揮していかというのは、根本的にはハートの問題、その人の「心」の問題であり、ここではその「判断力・分別力」が高ぶっているのだというのです。そのような人を神さまは「打ち散らし」「引き降ろし」「手ぶらで追い返されるのです」。私たちはこの地上においてすべてのものが神さまから与えられて、生かされているのだと謙虚に歩んでいく者となりたい。神さまの「力あるみ腕」を畏れて歩んでいく人生には本当に神さまからの慰めがあり、愛があり、私たちはそこにとどまって歩む人生を送りたいと願うのです。「身分の低い者」「飢えた人」の友となるお方です。
・そういう神さまとはどのようなお方なのでしょうか。49b節「その御名は尊く」口語訳では「きよい」。イザヤ57章15節「その名は聖と唱えられる方」旧約聖書で繰り返し呼ばれた神さまのご性質。「カードーシュ、聖」それは聖書の神さまのみにある独特のご性質である。もう一つ聖書の神さまが持っている独特のご性質、それは「憐れみ」です。マリアは50節「その憐れみは世々に限りなく」54節「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」と繰り返し主の憐れみについて賛美しています。マリアは主の憐れみがイスラエルだけでなく、「アブラハムの子孫」主を畏れる心を持っている人、民族や血筋の枠を超えて広く、すべての人々に及ぶと歌っています。主の憐れみは時間と空間を超えて広がっていくのです。マリアは旧約から主の憐れみを歌っています。哀歌3章22節~23節「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」私たちは永遠に尽きない主の憐れみに生かされていく者です。朝ごとに新しい主の憐れみを求めていきましょう。