礼拝メッセージ(2020年12月20日)

 『 幸せはどこに? 』 マタイによる福音書 2章:1~12節  林健一 牧師

 私たちは幸いな道を求めています。エレミヤ書6章16節では「どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」と言います。「安らぎ」とは「休息する」「憩わせる」を意味します。私の魂が幸いを得ることは休むことができる場所に留まることです。どこに行けば?魂を休ませることができるのか?クリスマスがその問いに対する答えなのです。

1、東の方から来た人々(マタイ2:1)
 東の方から占星術の学者たちが主イエス・キリストの誕生をお祝いするためにイスラエルにやって来ました。彼らは星を見て王の誕生を知り、遠い所から、自らの意思で、高価な贈り物を携えて来ました。彼らはユダヤ人(神の民)ではありませんでした。しかし、ユダヤ人の王を訪ねて来ました。彼らはそのユダヤ人の王が全世界の王であることを知っていたに違いありません。聖書は「学者たち」の出現を、「見よ」(新改訳)という言葉で始めます。これは、異邦人が最初にイエスさまを捜すようになったことに対する、驚きのしるしです。今もクリスマスの喜びはすべての人に与えられるものではありません。訪ねて来る人、慕い求める人、遠くからでも喜んで来る人に与えられるのです。

2、礼拝する学者たち (マタイ2:2~8)
 占星術の学者たちがユダヤの王を訪ねて来た理由は、誕生した王を礼拝するためでした。彼らはまずヘロデ王のところに行き、その方を拝みに来た(2節)と言いました。礼拝は人間がささげられる最も謙遜で具体的な神への奉仕です。礼拝をとおして私たちは神さまと出会い、魂に安らぎを得られます。彼らは「東の方」から真の王イエスに会いに来ました。「エデンの東、ノド(さすらいの地)」から来た学者たちはイエスさまにお会いして幸いを見出したのです。反対にヘロデは「わたしも行って拝もう」(8節)と言いましたが、彼がしたことはひれ伏すことではなく、殺すことでした。王座がイエスさまによって奪われることを恐れたのです。まことの礼拝は、ひれ伏して主イエス・キリストに栄光をささげることです。主を通して自分の益を求めることは、まことの礼拝ではありません。私たちが主の御前に行く最高の目標は、主を礼拝してあがめることです。それが人間の一番の目的であり、幸いなことです。

3、別の道から帰った(マタイ2:9~12)
 占星術の学者たちは、夢でヘロデのところへ戻るなという指示を受け、別の道から自分の国へ帰りました。彼らにはヘロデよりも偉大な王がおられました。誰でも主イエス・キリストに出会うと新しい人生の道を歩みます。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)。彼らが極度の喜びを体験したことを表現します。主イエス・キリストと出会う体験はこの世のすべてに勝る喜びを体験するということです。私たちも主に出会う前は罪人の道を歩みましたが、主に出会ってからは、救われた民としての道を歩み、その道を歩むことは、その人が主を通して新しい存在に変えられたことを意味します。主に出会って幸いな道を歩んでください。
 占星術の学者たちは、星を通して偉大な王が現れたことを知りました。彼らは遠くから贈り物を携えて来て、幼子イエスさまにひれ伏し礼拝しました。今、私たちも主をひれ伏し拝んでクリスマスを祝い、喜ばなければなりません。