礼拝メッセージ(2020年12月27日)

 『 悲しみをわすれない 』 マタイによる福音書 2章:13~23節  林健一 牧師

 クリスマスの出来事は、神さまの救いの出来事と同時に救いを受け入れようとしない人間の頑なな姿を現します。神さまの光と人間の心に潜む闇を描いています。占星術の学者たちにだまされたことを知ったヘロデ王はベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させました(2・15)。マタイは人間の心にある闇が、光を暗闇に変えてしまう悲劇を赤裸々に記します。

人の持つ闇
 救い主がお生まれになったのになぜこのような悲しみの出来事が起きたのか。イエスさまが生まれたことでこのような出来事が起きてしまったのか。神さまはヘロデをなぜ止めることができなかったのか。神さまに対する疑問が次から次へと出てきます。このような出来事をなぜなのか問う私たちです。しかし私たちは自分たちに向けては決して問いません。なぜ人間はそのような愚かなことをしてしまうのか。愚かな心を止めることはできなかったのか。決して自分たちの心に問いかけることはしません。罪の性質はつねに自分でなく他者を指摘することにあるのです。ヘロデのした幼児虐殺は王位が奪われることへの恐れから出たことでした。人間の罪が闇を生みます。私たちは自分の持つ闇にこそ問いかけていかなければならないのです。

神は御心を進められる
 救い主が来られたというのに、これは一体どういうことでしょうか。悲しむべき出来事ばかりが起こってきます。救いようのない出来事ばかりが起こってきます。神さまはヨセフに対して夢の中で指図しますが、「逃げなさい」とか「行きなさい」と言うだけです。神さまは何も解決してくださいません。積極的に動いてくださいません。ここで目を留めたいのは、18節のみ言葉です。これはエレミヤ書の31章15節の言葉なのですが、エレミヤ書では、その次の16節に、このような言葉があります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる」。そして、その同じエレミヤ書31章の31節には、こうあります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」。「新しい契約」、それこそ、主イエスさまが私たちを自由にしてくださる出来事です。人は皆、罪の奴隷なのです。自分中心に物事を考え、神をも人をも愛することができない。何よりもまず、自分を愛してしまう。いや、そうだろうか?ほんとうに私たちは自分を愛したことがないのです。ほんとうに自分を愛していることを知っているなら何を愛するべきか、愛していく人を知っているはずです。しかし、私たちは罪のなすがままになっている。その意味で、生まれたままの人間は皆、罪の奴隷なのです。へロデなどは、まさにその代表です。しかし、主イエスさまは、わざわざそのような王のもとに生まれてきてくださったのです。罪の奴隷になってしまっている私たちを自由にしてくださる方だからです。

悲しみという現実の先にある神さまの御心を信じる
 「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」と言われているのです。人が罪から自由にされるとき、人が罪の支配から神の御支配に移し替えられるとき、「苦しみは報いられ」ます。救いが与えられます。苦しみをも無駄にせず、むしろそれを用いて、救いが与えられるのです。ですから私たちは、こう信じていいのです。私たちが苦しむとき、悲しむとき、慰められようとも思わない時にこそ、キリストは私たちのすぐそばに来てくださっているのです。どのような出来事が起こったとしても、今日、神さまが見させてくださったとおり、すべてのことが神さまと導きのもとにあります。神さまは、すべてをご存知の上で、すべてを用いて救いのご計画を実現していってくださるのです。