礼拝メッセージ(2020年3月1日)

『 人はパンだけで生きるものではない 』 ルカによる福音書 4章:1~4節  林健一 牧師

 イエス様が公の働きに入って人々の前に姿を現す前に荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになったと、いちばん古い福音書であるマルコ福音書に短く記されています。ただ中身については書かれていません。一方マタイとルカはイエス様が悪魔から三つの誘惑をお受けになったと書かれています。ルカは今日読んだ四章一節から一三節までです。

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。

 イエス様が洗礼を受けられてすぐに公の働きに出られたのかというと、そうでなくて「ヨルダン川からお帰りになった。」とあります。「お帰りになった」。この言葉ですが帰る、元に戻るという意味がいちばん多いのですが、たまに脇に退く、脇へそれるという意味を持っています。「帰られた」とありますがここでは「ヨルダン川から荒れ野へ脇にそれた」とう意味なのでしょう。脇にそれる。と真っすぐ進むのでなく脇にそれる、そこに意味がある、大切なことがあるということを私たちに教えているような気がします。イエス様が荒れ野へ脇にそれた、そこで何を経験されたのでしょうか。

そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
 聖霊である神の霊がイエスさまを荒野に追い込まれた、「引きまわされる」と訳されているのは、ただ「導かれる」という言い方です。同じ表現が旧約聖書の申命記八章二節で使われています。

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
 モーセがイスラエルの民に神様があなたがたを四〇年も荒れ野を旅させたのは、あなたがたの心にある神様への思いをあらわにさせるためであったと言います。「あなたがたの心にあるもの」とあります。私たちは自分でも心に何があるのか気づかないまま先へ、先へ進んでいることがあるのだと思います。
 「悪魔から誘惑を受けられた」この「誘惑」という言葉は「試み」「試練」とも訳されます。神さまによってこの試練が与えられたとルカは書いています。「試練」という言葉に私たちはあまり良いイメージを持たない。しかし、私は「試練」というものが私の立ち位置や在り方を教えてくれる神様からの恵みであるということ聖書から教えられます。「試練」を通して自分の真の姿を知らされる。そこを通過してより神様への信頼を強くされていく大切な経験をイエス様もされたということのなだと思います。

そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
 悪魔はイエスさまに三つのことをささやきます。今日読んだ箇所は第一のささやきです。「石をパンに変えてみよ」との誘いです。誘惑です。イエスさまは40日の断食の後に、空腹になられました。悪魔はささやきます「あなたは神の子なのですから、石をパンに変えることを命じていいはずではないのですか」。あなたは事実、神の子なのだから何をしてもいいはずではないかという誘惑です。悪魔はイエス様の何を誘惑したのでしょうか?父なる神様の意志とは関係なく、自分で自分を救うために自分の力を使うか、そういう試みでした。父なる神様から「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」とイエス様はこの「わたしの心に適う」かどうか、私は本当にあなたの御心に従って生きる、その答えとして「人はパンだけで生きるものではない」と書いてあるとだけ言われました。イエス様がお受けになった試練をとおして真に神の子として神様の心に適う者であるイエス様に私たちは安心して委ねることができる恵みに感謝したいと思います。