礼拝メッセージ(2020年6月14日)
『 その人に触れ 』 ルカによる福音書 5章:12~16節 林健一 牧師
交わりの回復 先週、人間をとる漁師として召されたシモン・ペテロたちのことを学びました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(5:10)。主イエスさまはシモンらが人を集めるだけでなく、集めた人たちは「神の言葉」によって生気を取り戻すというか、本当に生きることができるものになる、そういう光栄ある役割を担うようになるのだと約束をしてくださいました。現代に生きる私たちも家族、周囲にいる人たちを「神の言葉」によって本当に生きることができるように神さまの息吹を起こすものになりたいと祈り願います。本日読んだ聖書の箇所、ルカによる福音書第5章12~16節には、主イエスさまが、重い皮膚病にかかっていた人をお癒しになったという奇跡が語られています。 人間が「清い・汚れ」を決めてさばく罪深さ この「重い皮膚病」とはどのような病気かということですが、それについては、本日読まれた旧約聖書の箇所であるレビ記の13章に細かく語られています。しかしどのような病気であるのかはよくわからないのが本当です。13章の45、46節によりますと重い皮膚病にかかっている患者は、宿営の外に離れて住み「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(45)と呼ばわらねばならない。」と定められていました。神さまが「汚れ・ターメイ」は神さまのほうから近づいてはならない、交わってはならないという意味であり、反対に「清い・ターホール」は神さまとの交わりを許され、人と人との交わりをも許される状態のことを指しているのです。この律法に理不尽と憤りを感じます。しかしよく考えてみると人間が「清い」「汚れ」がどれほどわかっているのか。自分自身で「清さ」「汚れ」を決める危うさ他者を差別し裁くという傲慢さを教えられました。本来の意味は「汚れ」に定められた人を差別し裁くのでなく神さま、人との交わりから絶たれてしまったことを悲しみ、厳粛に受け止めることが目的だったのだと思います。しかし、そこから離れて差別し裁き、自分はそうでないと奢る姿に自分も汚れていることを知らねばなりません。 この人が抱えていた本当の苦しみとは 「全身重い皮膚病にかかった人」が主イエスさまの前にひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったことの意味、またこの人の思いを深く知らなければならない。彼は、自分の病気、重い皮膚病の癒しを願ったのです。しかしそれは単に病気が癒されて元気になることを願ったのではありません。彼は「清くなる」ことを願ったのです。つまり、神さまのみ前に出て、礼拝をすることができる者となることを願ったのです。神さまのみ前に出ることができない、礼拝に連なることができない、という苦しみがあったのです。その苦しみの中から彼は主イエスさまに救いを求めたのです。 主イエスさま、あなたの望みはどこにありますか 主イエスさまは、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。するとたちまち重い皮膚病は去った、つまり彼は癒されたのです。主イエスがここでなさったことも、単なる病気の癒しではありません。主イエスは「清くなれ」と言われたのです。つまり彼を、汚れた者から清い者となさったのです。ここでルカが言いたかったことは何か?イエスさまという方が、神さまや人との交わりを願っておられるお方であり、そして願われるならば、それがおできになるお方であることを知らせたいのです。この病人の気持ちとか、あるいはイエスさまの感情とかでなくて、事実として、神さまとの交わり、人との交わりが絶たれていた中に、「ターメイ」であるところに、そうじゃなくて、「ターホール、交わりを許す」ということを主イエスさまは「願い」、そして願われるとおりに実現させる、そういうお方が来たという事実を伝えたいのです。主イエスさまの「手」が神さまとの交わり、分断されたすべての交わりを回復させてくださることを信じていこうではありませんか。 |