礼拝メッセージ(2020年6月21日)

『 地上で罪を赦す権威 』  ルカによる福音書 5章:17~26節 林健一 牧師

この人はいったい何者だ?
 先週、私たちは主イエスさまが重い皮膚病にかかった人を癒す場面を見ました。「汚れた・ターメイ」から「清い・ターホール」となった。主イエスさまのみ手は神さまと人間との間に交わりをもたらす唯一の手です。私たちは神さまから交わりを拒絶されていた罪人であったことを謙虚に受け止める必要がありましょう。しかし人間は愚かなもので自分を中心に物事を見てしまいます。いつも自分のフィルターを通してしか物事を理解しないものだと思います。多かれ少なかれ、自分のフィルターによって物事を曲げて理解しがちです。きょう取り上げる聖書の箇所には、同じ出来事でありながらまったく正反対の反応を示す人々が登場します。ファリサイ派の人々と律法の教師たち彼らに主イエスさまはどのような方として見えたのでしょうか?「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」(24)と主イエスさまのお言葉が出てきます。「地上で」との言葉に心を留めて今日の聖書を読んでいきたいと思います。「地上」が何を指しているのか私たちは思い巡らしながら聞いていくとき主イエスさまが確かに「地上で罪を赦す権威」を持った方であると知ることができるのです。

何に私たちは関心があるのですか?
 きょうの話に登場するのはファリサイ派の人々と律法の教師たちです。この人たちはルカによる福音書によれば、「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」(17)人々です。話を読み進めるうちに分かるとおり、これらの人々は決して主イエス・キリストの活動を手放しで喜ぶ人たちではありませんでした。むしろ主イエスさまの活動を調査し、機会を捉えて批判しようとしていた人たちです。きょう私たちは何に関心を持ってきたのでしょうか?「ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。」(17)この描写に私はとても意味深なものを感じます。「座っていた」その場所から離れようとしなかった彼らの心を描写しているのではないでしょうか。彼らは癒しも慰めの言葉も必要としない。主イエスさまのもとに行く必要がなかったわけです。かといって聖書はすべての人に救いが必要なのだと言っているのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブ12:2)。あまりに私たちの必要ばかりに関心をもっていると主イエスさまや教会が色褪せて見えるようになります。私たちの心を主イエスさまに向けていきたいと思います。

主イエスさまだけは見てくれている そこに私の信仰をかけていく
 さて、こうして大勢の人たちが集う主イエスさまのもとに、一人の男が四人の友人に運ばれてやって来ました。ところが、せっかく友人を運んできたのに、大勢の群衆たちに阻まれて、主イエスさまのもとへと近づくことができません。運んできた男たちは躊躇することもなく、「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」(19)のです。主イエス・キリストはそこまでするこの一団に「信仰」を見てとったのです。主イエスさまは私たち一人一人の信仰を見てくださっています。その主イエスさまのまなざしを私たちは信じていくことが大切なことだと思います。

地上で罪を赦す権威
 この罪の赦しの宣言は、決して立派な信仰のご褒美として与えられたと考えるべきではないでしょう。そうではなく、これらの人々には罪の赦しを受け取るだけの信仰が与えられていたと言うことなのです。
その人の中に信仰があるということが大切です。主イエス・キリストによって与えられる罪の赦しの恵みは、決して言葉だけの抽象的な観念の中の事柄ではありません。私たちはこの宣言をいただいて、具体的に新しく歩み始めることができるのです。「その人は神を賛美しながら家に帰って行った」(25)。赦しを受け取る者に与えられる恵みを私たちの生活にあらわしてまいりましょう。