礼拝メッセージ(2020年8月9日)
『 何とかしてイエスに触れよう 』 ルカ 6:17~19 林健一 牧師
考えてもいなかった
今週の8月15日でこの国は1945年8月15日の太平洋戦争が終わってから今年で75年になります。戦後に生まれた世代の私はこの国にかつて起きた戦争について学校で学んだことはありますが平和について考えたことはないように思います。小学校6年の担任の先生が日本の歴史についてよく教えてくれました。その中で戦争はしてはならないものだと自分なりに考えていくきっかけを教えてくれたことに感謝しています。ところが中学になってあるテレビを見ていたとき戦争についてわたしが一言いったことに対して伯父夫婦は戦争のこともわかりもしないのに戦争が悪いなんて言うなと私が泣いて「もう戦争のことは言いません」と言うまで戦争について簡単に言うもんじゃないと厳しく叱り続けました。戦争について語るということがある人たちにはそう簡単には語ってほしくないことであるし、反対にきちんと向き合ってほしいと語る人たちもいます。では私たちキリスト者にたいしてこの時代に平和について何を語り、何を後世に伝えていくことを神さまは求めておられるのでしょうか?
人々の現実のただ中へ
戦争や平和について何が正しくて何が悪であるのか一言で語ることはできません。先日のテレビで広島の原爆ドキュメンタリー番組では原爆を投下する人たち、投下された人たちの神さまへの祈る様子が映しだされるのを見ました。出撃する者たちをお守りくださいと祈るアメリカ軍の牧師。原爆を投下した人たちのために祈る長崎のキリスト者たちの祈り、わたしは衝撃と同時に神さま、あなたは両方の祈りをどのように聴いていたのですか?そう問いかけたくなりました。どちらの祈りも神さまは聴いてくださっている。受け入れてくださっている神さまがいると思うのです。今日の聖書箇所に出てくる山を下って人々の前に立たれたイエスさまもこの世界に生きる私たちのそうした祈りを心痛みつつ聴いておられていたのでしょうか?「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」17節にあります。主イエスは夜を徹して祈り選んだ十二人と一緒に山から降りてきます。そこには、大勢の弟子とおびただしい民衆が、「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から」集まって来ていました。そして「イエスの教えを聞くために」また「病気をいやしていただくために」待ち構えていたのです。
主イエスはみ言葉を私たちに語られる
主イエスは求めて来た人たちだけのところへ来たのではないと思うのです。殺意をもっているファリサイ派や律法学者たちのまえにも姿を現されました。これは何を意味しているのでしょうか?神さまはわたしたちのまえに御身をさらしてくださった。そして居続けてくださるということです。平和と敵意、和解と憎しみ、私たちの世界は相反する、矛盾に満ちています。そういう世界に神さまはひとり子であるイエス・キリストを送ってくださいました。救いのない世界を父なる神さまはイエス・キリストをとおして私たち人間と和解してくださり神の国を実現してくださいます。そのためにイエス・キリストは十字架に架られたのです。この後に主イエスは神の国について民衆に語られるのです。私たちは主イエスが語られる神のみ言葉を聴こうではありませんか。主イエスが語られる神のみ言葉にこそ世界を平和にし、私たちを敵意、憎しみから救い出すことができるのです。