礼拝メッセージ(2020年8月23日)

『神のために、憎まれる? 』  ルカによる福音書 6章:22~23節  林健一 牧師

 イエス様は四つの幸いについて弟子たちに説教しました。今回は四番目の幸いについてです。「人々に憎まれるとき」ユダヤ人に限らず、すべてのこの世の「人々」に憎まれるとイエス様は弟子たちに言われます。イエス様を信じるときに「人々」はあなたがたを憎むようになると言われます。また、「人の子」イエス様がご自分のことをメシアとして表現するとき用いる表現です。弟子たちは「人の子」のゆえに当時のユダヤ教会堂から「追い出され」「ののしられ」「汚名を着せられる」ことになると言われました。事実、この後弟子たちは「イエス様」の名ゆえにユダヤ人から迫害されていくのです。福音(よき知らせ)であるイエス様の名を信じたゆえに人々から憎まれ、ユダヤ人共同体(信仰共同体)から追い出されるばかりか迫害されるのです。ここで大切なことは正しいことをしようとか、社会運動をしようとかをしてイエス様の弟子たち、教会は憎まれるようになったのではないということです。イエス様を信じ受け入れて歩んでいる。ただそれだけで「この世の人々」から憎まれる者となったのです。

 ここでもう一度確認しなければいけないのは、イエス・キリストを信じて歩んでいくときに私たちも迫害を受ける者になるということです。このことはイエス・キリストを信じるときに私たちは自分でそうしなくても周囲にキリストを証しする者とさせられていくようになることをキリストは言っています。それが周囲に大きな影響を与えていくようになるのです。だから人々は畏れ憎むようになるのです。もしイエス様を信じてもあなたの周囲と何の軋轢を起こさないとすれば私たちは自分の信仰に大いに疑問を持たなければなりません。イエス様を信じて歩むときに私たちの人生のなかにキリストの御業があらわされるのです。キリストが私の心に住まう時、私の人生の主人となってくださるとき私の人生にキリストは大きな変化をもたらしてくださるのです。社会運動で人々の心は変えられません。イデオロギー(信念・理念)で人々の心は変えられません。イエス・キリストの十字架だけが人々を新しく変えることができます。社会運動やイデオロギー、哲学は人を罪から救うことはできないからです。人を罪から救いまった機新しい人として新生させてくださるのはキリストの十字架のみです。

 私たちはどうしたらイエス様の御心の中に生きることができるのでしょうか?自分の努力でイエス様、神様に近づけないことは十分に知らなければなりません。イエス様の憐みに生きるほかありません。自分は大丈夫だと主張することを放棄しなければなりません。何もできない自分をイエス様のまえに誇ることです。飯能の山キリスト教会牧師の中村譲さんがキリストにある謙遜についてこういっています。
教会に必要なのは、信仰の強さを誇る信仰者でなく、弱さを大胆に主の前に出す信仰者です。表面的な謙遜さではイエス様の愛は受け取れません。「謙遜に愛を受け取るのではなく、愛を受け取るゆえに謙遜になるのです。」 私たちの謙遜ではイエス様の愛を受け取ることはできません。自分の謙遜さで弱さを隠すのでなく、大胆に弱さを主の前で認める素直さが大切です。なぜなら、十字架にまで従われたイエス様と出会わないかぎり、私たちは謙遜になれないからです。私たちは謙遜に十字架に従うのでなく、謙遜な十字架に大胆に従うのです。この謙遜さを持つイエス様と出会うために、私たちは教会に行くのです。私たちの弱さのうちに大胆に働かれるイエス・キリストを信じましょう。