礼拝メッセージ(2020年9月27日)

『 赦しなさい? 』  ルカによる福音書  6章:37~38節  林健一 牧師

 37、38節の前半には「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とあります。ここで語られているのが「憐れみ深い者」です。父なる神さまが憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い者となるとは、人を裁かず、罪人だと決めることなく、赦し、与える者となることなのです。ここでイエスさまは第一に「してはならい」と、二つの消極的な命令を命じています。誰かを一方的に悪者にしたり、罪に定めたり、さらには裁いたりするのであれば、「人を裁くな」というイエス様のお言葉はそのことを戒めているのです。私たちの心の中にある、人のあらを探し、非難だてをする、そういう傾向性、人を咎めたてるのが好きだ。こういう心の癖をイエス様は戒めているのです。

 「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」とイエス様は言われます。しかし裁くことが裁判で判決をくだすことであり、罪人だと決めることが有罪の判決をくだすことであるならば、多くの人にとってこのイエス様のお言葉は関わりがないことになります。けれども「裁く」ということは私たちにとってもっと身近で、日常的なことなのではないでしょうか。それは、言葉を換えるならば、「レッテルを貼る」ことであったり「優劣を決める」ことであったりするのです。レッテルを貼ることは相手を支配することにつながります。この人はこういう人だと相手を自分の手の中に置きたいのです。

 イエス様は第二に「しなくてはならない」ことを命じておられます。「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」が消極的な二つの命令であるとすれば、「赦しなさい」「与えなさい」は積極的な二つの命令であるといえます。ここで誰を「赦しなさい」とかどんな人を「赦しなさい」とか、あるいは誰に「与えなさい」とかどんな人に「与えなさい」とか記されているわけではありません。あらゆる人を赦し、あらゆる人に与えなさいと教えられているのです。「赦しなさい」のもともとの意味は「解放する」です。主の祈りにあるルカによる福音書11章:4節「わたしたちに負い目のある人を赦す」。ただ漠然とあの人と性が合わないなあと煙たがるような相手を赦すというのじゃなくて具体的に現実にわたしに利害のある、わたしが貸している、そういう相手を自分の支配から解放する、帳消しにする、赦すという行為です。

 私たちの目を自分と他者から解放し父なる神様のまなざしに注いでいかなければなりません。マタイによる福音書18章:21節からのイエス様のたとえ話に、王様から一万タラントン(一タラントンは6000日分の給料、一タラントは6000デナリ)の負債を赦してもらった家来が、今度は百デナリオンの借金のある仲間を赦さないといって苦しめる話です。王様は、先に赦しておいた家来をもう一回呼び戻して牢に入れてしまいます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」赦すという行為は自分がすべてを支配し治めているという錯覚、罪から神様に支配を明け渡す、解放されるという行為なのです。私たちは赦すことで自分が神様に赦されていることを知ることになるのです。