礼拝メッセージ(2020年9月20日)

『 愛してくれる人を愛して何が悪い? 』  ルカによる福音書 6章:31~36節 林健一 牧師

 「自分を愛してくれる人を愛する」、「自分によくしてくれる人に善いことをする」、「返してもらうことを当てにして貸す」、この姿勢は、相手がどういう者であるかに応じて自分の接し方を決める生き方です。まず相手がどういう人間であるかをはっきりさせた後で、自分の態度を決めているのです。イエス様はそういう消極的な姿勢を超えることを求められました。「人にしてもらいたくないことをしない」のではなくて、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもする」のです。その時、相手がどういう者であるのかは問題にされていません。たとえ相手が日頃から自分の悪口を言い、自分を侮辱する者であっても、自分を憎む者であっても、その人によいことをするのです。このイエス様の御言葉の前に立たされる時、私たちの誰が顔を上げていることができるでしょうか。誰が自分はイエス様の求めておられる通りに生きていると、胸を張って言うことができるでしょうか。愛においてまことに破れ多く、欠けに満ちており、イエス様の語りかけの前に口をつぐんで、恥ずかしさと辛さでうつむいてしまうしかない、それが私たちの姿ではないでしょうか。

 イエス様の「敵を愛しなさい」という教えは、私たちには到底できないことを求めていて、良い教え立派な教えではあるけれど、現実的でない理想に過ぎないのでしょうか。ここで私たちは改めて「敵を愛する」ということに立ち止まってみる必要があります。「敵を愛しなさい」とイエス様が言われるその「愛」は、心の中に自然に湧き起こるような感情などではなく「意志」に関わることです。ここに聖書が告げる「愛」の新しさがあります。私たちはまったく新しい「愛」を知らされているのです。「敵を愛する」とは、好き嫌いのような感情の問題ではなく、感情を越えてあるいは感情に逆らって実現する意志の問題です。それは、感情の波によって、相手を愛せたり愛せなかったりすることを抑えようとすることではありません。そうではなくこの「愛」は意志であり、「敵を愛する」とはその意志による生き方そのものなのです。

 この愛は、主イエス・キリストの十字架において打ち立てられました。この愛こそ、私たち罪人を救おうとされる神さまの強い意志にほかなりません。35節に「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」とあります。かつて私たちは、神さまに命を与えられ生かされていたにもかかわらず、神様に背いて生きていたのです。しかし神様は、そのような私たちを愛してくださり、私たちを救うために独り子主イエス・キリストを十字架に架けてくださいました。この愛によって打ち立てられた新しい世界へ私たちは入れられています。