礼拝メッセージ(2021年10月24日)

『 内側こそ清めよ 』   林健一 牧師

イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。

ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。

主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。

愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。

ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。

ルカによる福音書  11章:37節~41節(新共同訳)
 
 ここには、イエスさまがファリサイ派の人から食事に招かれて席に着いた時のことが語られています。                                                    

38節 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
 食事の前に際してイエスさまが身を清められなかったのを見て「そのファリサイ派の人は」不審に思ったとあります。「不審に思った」という言葉はもっと単純に「驚いた、びっくりした」という意味です。身を清めることをせずに食事の席に着いたイエスさまにそのファリサイ派の人はびっくり仰天したのです。
 そのように驚いているこのファリサイ派の人にイエスさまは40節で「愚かな者たち」と呼んでおられます。この「愚かな者」というのは知識はたくさん持っているかもしれないが、「自分の意見を持っていない」。従って、「判断力がない」、「思慮分別がない」、そういう意味で「愚かな者」。ただ昔からの言い伝えどおりに生きているとか、皆がするからわたしもするとかという程度の人たちだとイエスさまはおっしゃいます。

39節「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」
 外側ばかりをいっしょうけんめいきれいにするが、内側は強欲(暴力と貪欲)と悪意(よこしま)に満ちているのがファリサイ派の人々の姿だとイエスさまは言われます。食事の前に身を清めることにこだわることをイエスさまは内側をないがしろにして外側ばかりをきれいに見せようとすることに警告しています。

41節「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」
 自分の清さを溜め込もうとするのでなく、からっぽになって神さまの恵みをいただき、自分に与えられたものを感謝して用いていくことによって、全てのものが清いものとなるのです。これは汚れているのではないか、こんなことをしたら汚れるのではないか、などとびくびく恐れることなしに、神さまに与えられている自分の人生を大胆に、自由に、伸び伸びと生きることができるようになるのです。