礼拝メッセージ(2021年10月17日)

『 あなたの中にある光 』  林健一 牧師

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。

あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。

だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。

あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

ルカによる福音書  11章:33節~36節(新共同訳)
 
 今日の聖書の箇所ではイエスさまは「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言って、私たちの内にある光について自己点検をするように促しています。最初にイエスさまは、33節「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」とお語りになってともし火についての一般的な常識を口にします。もちろんイエスさまがここでお語りになりたいのは、ともし火についての一般常識ではありません。そんなことは言うまでもなく当時の人々であれば誰もが知っている常識です。何を語りたいのでしょうか?

 イエスさまは、ご自分がわざわざ人目をはばかるようにこそこそと隠れて何かをしているわけではないのだ。まして神さまからの福音(よき知らせ)救いのメッセージを覆いで隠して、わざとわかりにくくしているというわけではないのだと。誰もせっかくのともし火を穴蔵の中や升の下に置かないのと同じようにイエスさまも言葉と行いを通して、みんながはっきりとわかるように神さまの真理をお示しになっているのだといっているのです。

 34節 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
 35節 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
 こうこうと輝いている光を見るとができずに、「暗いからもっと光を」といえば、それは明らかに目に問題があるはずです。もちろん、イエス・キリストがここでおっしゃっている目も身体も、文字通りの目や身体ではなく、比ゆ的な霊的な意味です。「濁る」とは「悪い、よこしま」という意味です。「見るべきものが見えていない」状態にあるのです。反対に「澄んだ目」というのは「物事をはっきり真っすぐに見られる目」という意味です。

  罪のために暗くなっているわたしたちの内側に気がつくことこそ大切です。あとは、救い主イエス・キリストがすべてを解決してくださいます。イエスさまによって私たちの人生にともし火を照らしていただきましょう。