礼拝メッセージ(2021年8月22日)

『 主の祈り(1) 』  林健一 牧師

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。

ルカによる福音書 11章:1~2節(新共同訳)
 
 本日の聖書箇所では主イエス・キリストが弟子たちに「主の祈り」を教える場面です。1節ではイエスさまは祈っておられたと。ルカによる福音書ではイエスさまが重要な場面で必ず神さまに祈ってから行動なされたことが書かれています。イエスさまが祈られてから行動されたということ。それは私たちがなおさら祈らなくてはいけないということではないでしょうか?祈りとは何でしょうか?それを今日私たちは「主の祈り」をとおして学んでいきます。「主の祈り」は私たちにどのような恵みを与えてくださるのでしょうか?

 第一に父なる神さまとの親密な関係のなかに私たちが招かれる恵みです。祈りと言うと「何を祈るか」「どのように祈ったらよいのか」に焦点が置かれます。しかし、主イエスさまは「主の祈り」を弟子たちに教えるにあたり祈りとは父なる神さまとの親密な関係が一番大切なことであることを教えようとされたのでした。私たちもまず祈りとは「何を祈るか」でなく祈る対象が「どのようなお方」なのかを知ることに重点を置かなければなりません。

 第二に「喜び」が与えられます。父なる神さまに近づくことが許された私たちにはこの世で得ることのできない確かな喜びが父なる神さまとの関係のなかで与えられるのです。「御国が来ますように」神さまの支配がこの世界、私のなかに来ますようにということです。それは主の臨在のなかに入ることです。主の御手のうちにはいることです。聖書は、主の臨在のうちに私たちが完全な喜びを見いだすと教えています。

 第三に確かな「希望」が与えられます。この「希望」は与えられるであろうという不確かな希望ではありません。神様によって確かに与えられる永遠に変わることのない「希望」なのです。主は私たちのアッバ(お父さん)です。主は私たちをご自分の力強い御手で優しく支えていてくださいます。私たちへの愛をやさしくささやきかけ、私たちをご自分の懐に導き入れて、私たちと親しく交わってくださるお父さんです。このお父さんに私たちは絶えず祈ろうではありませんか。