礼拝メッセージ(2021年8月29日)

『 主の祈り(2) 』   林健一 牧師

わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

ルカによる福音書 11章:3~4節(新共同訳) 
 
 本日は、主の祈りについて後半の「わたしたちに」関わる祈りについて学びたいと思います。前半では新共同訳では出ておりませんが、「あなたの御名」「あなたの御国」というまず私たち自身のことではなく、神さまの願い、イエスさまの願いを祈る。そのようにイエスさまは教えられました。私たちがまず神さまの願い、イエスさまの願いを祈るときに、私たち自身の生きる意味が分かってくるということを教えられました。今日読んだ箇所3節と四節は私たち自身のための祈りとなっています。

 3節での「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。 ここで言う「糧」とは、原文のギリシャ語では「パン」という意味です。また、「必要な」という言葉ですが、これは原文では「存在のための」「今日の日ための」「来るべき日のための」という意味があるそうです。また、「必要な」という言葉ですが、これは原文では「存在のための」「今日の日ための」「来るべき日のための」という意味があるそうです。私たちが私たちのために祈るときに、「生きていくためにどうしても必要なごはんを毎日与えてください」と祈りなさいとおっしゃっているのです。

 「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。赦すことは決して相手を無条件に受け入れることではありません。神さまの赦しをいただき神さまの赦しがなんであるかを知った者だけが赦すことができるのです。赦すとは相手と共に生きていくことを神さまの御前に決断し宣言することです。ただし相手が自分にしたことを忘れることではないのです。忘れ去られることは決してないのです。赦すという行為があり赦すことを永遠に為し続ける神さまの赦しがイエス・キリストの十字架なのです。私たちは永遠に赦し続けてくださる主イエス・キリストの十字架を受け続けているのです。「赦す」「生きよ」という神さまのメッセージなのです。

誘惑というのはある意味ではわたしたちと神さまとの関係を壊していく、わたしたちが信仰者として歩んでいくことを壊していくことなのだと思います。わたしたちが神さまを意識しない歩みをしているのならすでにわたしたちは誘惑に屈服しているのです。自分の人生を生きることができなくなっているのです。ここでも神さまは誘惑に負けることなく生きよとおっしゃっているのです。