礼拝メッセージ(2021年9月5日)

『 友達の頼み 』   林健一 牧師

また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。

旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』

すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

ルカによる福音書  11章:5~8節(新共同訳)
 
今日のお話は、前の1~4節「主の祈り」の個所とつながっています。この例えはルカだけのものであります。イエスさまは弟子たちにこの例え話をとおしてクリスチャンの祈りとはどういうものであるかの奥義を明らかにされました。私たちが神さまの御心を行いたい。友のためにしたいが何もすることができない。しかし、私たちの主イエスさまは失望してはならないと言われます。なぜならこの例え話にでてくる「貧しい者」が、もうひとりの「貧しい者」と出会い、父なる神さまに憐れみを求めて一生懸命に祈るとき、そのような祈りを天の父は必ず聞いてくださる。だから祈り続けよと言われるのです。天の父の御心にかなった祈りだからです。

 8節で戸を叩かれた友人が「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」という言葉は興味深いものです。自分の貧しさを知る者が、友を覚えて「しつように祈る」ことへと導かれるとき、その祈りに神さまは必ず応えてくださるのです。父なる神さまは私たちに祈り続けることを願われます。祈りは続けて祈ることが必要です。主イエスさまはあなたが、まことに必要なものを祈り続けるのであれば必ずやその祈りは聞かれると言われました。私たちの神さまは友達でなく、それ以上のお方であるのです。

 私たちは祈り続けることの大切さを知っているつもりですが、その源はどこからでてくるのでしょうか?榎本保郎先生は祈りとは「愛という行為の中から生まれてくるものである」ことを教えています。主イエスさまは例え話をとおして神さまは愛なるお方であるがゆえに、私たちの父であるがゆえに祈りにお答えになるのだといわれます。私たちの父なる神さまは豊かに私たちの祈りにお答えになるお方です。つねにこのお方に祈りをささげていきましょう