礼拝メッセージ(2023年10月22日)
『 信じる者は死なない 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 11章:17節~27節

17:ヨハネによる福音書/ 11章 17節
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

18:ヨハネによる福音書/ 11章 18節
ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

19:ヨハネによる福音書/ 11章 19節
マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

20:ヨハネによる福音書/ 11章 20節
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

21:ヨハネによる福音書/ 11章 21節
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

22:ヨハネによる福音書/ 11章 22節
しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

23:ヨハネによる福音書/ 11章 23節
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

24:ヨハネによる福音書/ 11章 24節
マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

25:ヨハネによる福音書/ 11章 25節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

26:ヨハネによる福音書/ 11章 26節
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

27:ヨハネによる福音書/ 11章 27節
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

新共同訳聖書

 

 今日は、主を迎えに来たマルタの信仰から学びたいと思います。
マルタには、主が成してくださることが最善であるという信仰があったのです。主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。マルタは、イエス様に向かってこう言いました。これは、マルタのラザロが死んでしまったという嘆き悲しみの中で、イエス様に思わず呟いてしまった言葉だと受け取ることも出来ます。どうしてあの時すぐに来て下さらなかったのか。わたしたちが、あれほど願ったのに、どうして立ち上がって下さらなかったのか。「どうしてイエス様は」という嘆きでありましょう。このような思いをわたしたちが抱くことはないでしょうか。「神様は、どうしてこの不幸なわたしのところに来て、助けてくれないのでしょうか」「神様、わたしの病気は治らなのでしょうか」とか、さまざまに嘆いてしまう自分がいるように思えるのです。

 イエス様がマルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタはイエス様に言います。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」 イエス様は続けてマルタに言いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 もちろん復活信仰を持っていたマルタは信じたでしょう。私たちもまた、復活を希望として信仰しています。今日わたしが申し上げたいことは、その復活のことではなく「26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」「イエス様によって信じる者は、今、現に、永遠の命に与かっている」ということなのです。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。」私たちは、このことを信じているでしょうか。イエス様はこのことをわたしたちにお尋ねなのです。

 マルタは何と答えたでしょうか。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」「この存じております」も曲者です。「存じている」「知っている」と「信じている」とは全く違いますよね。イエス様が、その人に与える「いのち」は、地上のものが潰(つい)えて、自然界という中から見えなくなったとしても、残り続けることが出来るのです。それは、わたしたちがこの地上において消え去るという定めの中にある命でありましても、イエス様が与えてくださった現在の「いのち」は、いのち」であり続けるのです。イエス様を救い主として信じているわたしたちの中に、主イエス・キリストが生き続けるのです。パウロは信仰義認の言葉の中で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と証言しています。