礼拝メッセージ(2023年12月10日)
『 弟子の足を洗う 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 13章:1節~11節

1:ヨハネによる福音書/ 13章 01節
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2:ヨハネによる福音書/ 13章 02節
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3:ヨハネによる福音書/ 13章 03節
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4:ヨハネによる福音書/ 13章 04節
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5:ヨハネによる福音書/ 13章 05節
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6:ヨハネによる福音書/ 13章 06節
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7:ヨハネによる福音書/ 13章 07節
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8:ヨハネによる福音書/ 13章 08節
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9:ヨハネによる福音書/ 13章 09節
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10:ヨハネによる福音書/ 13章 10節
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11:ヨハネによる福音書/ 13章 11節
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

ヨハネによる福音書 13章:1節~11節(新共同訳聖書)

      

 さて、イエス様は上着を脱ぎ、手拭いを腰にまとわれるという当時の奴隷のようにふるまいました。へりくだり、威張り散らす主権者のようにではなく、仕える僕の姿となり、弟子たちの足を洗いました。それは単に謙遜に仕えるという模範だけではなく、十字架の死と罪の赦しを象徴的に示したものでもあったのです。洗うとは、罪の赦し、救いを見える形で表現したものです。そしてそれは、イエス様がご自身を信じて従ってきた弟子たちを最後まで愛し抜き、その愛の証拠として示されたものでした。イエス様がペテロの足を洗おうとした時、ペテロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と拒みました。「わたしこそ主の足を洗うべきです。その逆などとんでもないことです」と言いたかったのかもしれません。イエス様の行為をやめさせようとしました。イエス様が弟子の足を洗うという意味が、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われても、ペトロには何のことかわからなかったのです。自分本位にしか物事を見ないということが、神に背を向けるという罪を生むことに気が付かなかったからです。
 「足の汚れ」わたしたちはその時々に犯す罪を悔い改めなければなりません。贖罪の十字架によってわたしたちは清められたのですから。悔い改めたわたしたちの足をイエス・キリストが上着を脱いで、手ぬぐいを取り、たらいに水を入れて洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭いてくださいます。もし、「自分はイエス様を信じて清められたのだから、すべての罪が赦された。だから、もう悔い改める必要なんてない」、と言うとしたら、その人は自分自身を欺いていることになります。聖書は、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(Ⅰヨハネ1:8)と言っています。ですから、イエス様を信じてきよめられた人は全身を洗う必要はありませんが、日々の歩みの中で犯してしまった罪の汚れを、日々悔い改めを通してイエス様に洗っていただかなければならないのです。足という言葉に表される「心」。わたしたちは日々の歩みの中で犯した一つ一つの罪を悔い改めることを求められているのです。主はそのすべての罪を赦し、すべての悪からわたしたちを清めてくださいます。
 同時に、イエス様がわたしたちに言い残したいことは、へりくだる心で隣人と一番汚れたところと言われる足を洗い合いなさい。という教えなのです。そしてこの教えと共に大切な教えは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というように、隣人と足を洗い合うという行為は、誰しもが持ち合わせている自己中心から起こる心の罪を赦し合いなさい。ということなのです。