礼拝メッセージ(2023年5月7日)
『 水瓶を水で一杯にしなさい 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 2章:1節~11節
02章 01節:三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
02章 02節:イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
02章 03節:ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
02章 04節:イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
02章 05節:しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
02章 06節:そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
02章 07節:イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
02章 08節:イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
02章 09節:世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
02章 10節:言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
02章 11節:イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
ヨハネによる福音書 2章:1節~11節(新共同訳)
ヨハネは言いました。「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らないお方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」ヨハネが証したのは、ほかの誰でもなく、「あなたがたの知らないお方がおられる」という事実です。「メシアはあなたがたの中に、確かにおられる」という事実なのです。この事実はわたしたちの時代になるまで2000年の時を刻み続けています。今この教会に、その「知らないお方」は立っていないでしょうか?わたしたちは礼拝の冒頭に「わたしたちを呼び出してくださって礼拝を捧げる幸せを感謝します」と過ぎた週の守りを感謝する、とともに、主に会える喜びを口にします。それは、このイエス様の姿を証ししてくれたヨハネの証言を信じて生きているからではないでしょうか。困難にぶつかったとき、この世の物差しで事態を何とかしようとあがいているとき、クリスチャンであるということを忘れて立ち向かっているとき「あなたの知らないお方は、あなたの所に立っていないのでしょうか。」ここにおられる方々は知っておいでですよね。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」このヨハネの紹介したイエス様こそが、この世の罪を取り除く神の子羊なのです。まさしく、わたしたちの信仰は間違っていなかった。これでよい!と背中を押してもらっているような気さえします。この「神のこ子羊」イエス様は、わたしたちの罪を負ってくださいます。
重荷を背負っている人に、「その荷が軽くなる方法をお教えしましょう」といっても荷が軽くなるわけではありません。けれど、「その荷を、わたしが代わりに背負いましょう」といって代わってくださったらどうでしょう。当然軽くなりますよね。神の子羊であるイエス様はこのように「あなたの罪」「わたしの罪」をご自身の肩に担ってくださるのです。と、いうことはですよ、わたしたちの肩にその荷はもはやなく、イエス様の肩にあるはずです。そればかりか、ヨハネが言うのには「その罪を取り除く神の子羊である」と言うのです。すでに、「あなたの罪」「わたしの罪」もなくなっている。確かに罪は現実の問題として存在します。しかし、その罪の力はイエス様が贖罪の十字架に架けられた時からすでにその効力を失っているのです。信仰生活とは、「この子羊によって罪は取り除かれた」という事実の中で生きることなのでしょう。