礼拝メッセージ(2023年7月16日)
『 わたしだ、恐れることはない 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 6章:16節~21節

06章 16節
夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。

06章 17節
そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。

06章 18節
強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。

06章 19節
二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。

06章 20節
イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」

06章 21節
そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

ヨハネによる福音書 6章:16節~21節(新共同訳)

 この弟子たちを描いた記事を見てみると、このヨハネによる記事にも、平行箇所の、マタイやマルコでも、弟子たちは恐ろしくなりイエス様に助けてくださるように祈った」という信仰の姿は、どこにも記されていないのです。しかも、イエス様の姿を目の当たりにして「幽霊だ」と言って怯えたとさえ書かれているのです。「わたしだ、恐れることはない」イエス様が湖の上を歩いてくる姿を見て、イエス様の幽霊であると思ったのかもしれませんけれど、本物の主イエス様だとは思わなかった。こんなところにおられるはずはない。自分たちは一人ぼっちでこの恐怖の中に放り出されている。と。・・あれほどに奇跡を見せられて、「この人こそ、わたしたちを救うお方だ」と思ったはずなのに、「神は、わたしたちを見捨てたのだ」と弟子たちは、考えてしまったのです。

 これは、わたしたちの姿を現しているとも考えられるところです。わたしたちにだって、この弟子たちと同じように感じてしまうことがあるのではないでしょうか。わたしたちもまた、神を信じているつもりでも、この弟子たちと同じように身に降る火の粉の中で怯えてしまう。イエス様を救い主だと信じている、「この先の人生はイエス様と一緒に生きてゆく」と心に決めた。そんなわたしたちも、人生の荒波に揉まれてしまうと「神も仏もあるものか」と、ついつい嘆いてしまうのです。そんな時に、実は「わたしだ、恐れることはない」とイエス様は声をかけてくださっておられるのです。「恐れてはならない、わたしだ。激しい嵐の中でもわたしがあなたと共にいるのだから、安心しなさい」と、声をかけてくださるのです。

 皆さんは、なぜ、信仰を持っているわたしたちが毎週、日曜日に教会に集められるのか。どうして、教会の礼拝や集会に行こうと思うのか。と、お考えになったことはないでしょうか。わたしたちクリスチャンは、日曜日を主の日として教会に来て、礼拝を捧げることを大切にします。礼拝とは一体何でしょうか。聖書の朗読を聞いて、牧師の話を聞く。賛美歌を歌う。お祈りをする。それは、いったい何のためにするのでしょうか。それが、今日のポイントです。わたしたちは、ここで主イエス・キリストにお会いするのです。

 教会は良く一艘の船に例えられます。先ほどのお話のように、わたしたちもまた嵐の中を船で漕ぎ進んで、立ち往生するような生活を迎えることもあるでしょう。そんな時も教会に来て、神の家族と集まり、その交わりの中で、今日のお話の弟子たちのように、イエス様のお声を聴くのです。湖の上を歩いて主イエス・キリストが来られたように、イエス様の訪問を受けるのです。「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」 その主を見上げながら、「そうだ、確かにここに主がおられる」と、主と共に歩む生活を確信するのです。