礼拝メッセージ(2024年1月14日)
『 自分を捨て、実を結ぶ 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 15章:1節~12節

1:ヨハネによる福音書/ 15章 01節
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2:ヨハネによる福音書/ 15章 02節
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3:ヨハネによる福音書/ 15章 03節
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4:ヨハネによる福音書/ 15章 04節
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
5:ヨハネによる福音書/ 15章 05節
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
6:ヨハネによる福音書/ 15章 06節
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
7:ヨハネによる福音書/ 15章 07節
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
8:ヨハネによる福音書/ 15章 08節
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
9:ヨハネによる福音書/ 15章 09節
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10:ヨハネによる福音書/ 15章 10節
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11:ヨハネによる福音書/ 15章 11節
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12:ヨハネによる福音書/ 15章 12節
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

ヨハネによる福音書 15章:1節~12節(新共同訳聖書)

       

 1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。今、わたしたちは、ぶどうの枝に例えられています。イエス・キリストが幹なのです。そして、父なる神は農夫です。わたしたちは、イエス・キリストという幹を通して、生ける神に育てられているのです。そして愛の御手によって、良い実を結ぶことになるわけです。


 わたしたちの知っているロティ―ムーンは、1840年に生まれました。19歳の時、特別集会が学校で開かれ、学生は早天祈祷会をしていました。何とかしてこの伝道集会でロティ・ムーンに決心して欲しいというのが学生の真剣な祈りがあったのです。自分のために皆が祈っていることを知ったロティは憤然として「私のためになんか祈らないでちょうだい。」と言い、友だちが熱心に勧めると、いつもたくみに、冗談まじりに身をかわしてしまうのでした。すると大きな奇跡が起こりました。それは牧師の説教によるものか、友達との交わりによるのか分かりませんが、そこに多くの祈りがあったことは確かでしょう。ロティ―の短い告白の中に秘められた魂の秘密の一端を伺い知ることが出来ます。「私は冷やかし半分に集会に行きましたが、部屋に帰ってから一晩中祈り通しました。」魂の戦いの一夜が明けて、翌朝祈祷会に姿を現わした彼女は。友だちの祈りを冷たく聞き流す者でなく、熱心に祈る者として出席したのです。ロティ・ムーンは主に捕らえられたのです。当時の彼女をよく知っていたある女性は次のように語っていたと、書かれています。「回心してからのロティ・ムーンは変わりました。頭は相変らず知性に輝いていましたが、それに優しさが加わってきました。天性の聡明さに加えて、はっきりとした人生の目的に向かって進む気迫が感じられました。また、友人への影響も変わってきたのです。そして毎日の一つ一つの行為が、クリスチャンとしての勝利の証しだったのです。」つまり彼女に賜物として与えられた知性の輝きはイエス様に繋がってやさしさという愛の実をならせたのです。その後主がロティ―をどのようにお用いになられたかは、皆さんの知っての通りです。その実をいかんなく発揮した生涯が、彼女の尊い生涯だったのです。


 弟子となる条件の一つに、「自分を捨てる」という重要なことがあります。「自分を捨てた」時、私たちの心が変えられ、神の御心を願うようになるのです。信仰とは、あくまでも愛によって働くものであり、愛をなくして信仰を語っても意味がありません。パウロは、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」(Ⅰコリント13:13)」と教えています。 イエス様に繋がるとは、イエスさまの愛の中にとどまることであると断定しています。小さなことからで良いのです。イエス様からいただいた「賜物」ブドウの実を一人のためでなく、神の愛されるみんなのために使ってみるのです。